ここは文化一般受信の小道。
あと、毎日、大変だねってなコト。

毎日、少しずつ更新。
すべての日々の生活者たちによって。

2000年12月6日、午前6時半ごろ、
web版、スタート。




4月15日

「他者の痛みへのまなざし」、あるいはブラウザを閉じる。




2億総保守思想的様相を帯びているアメリカ合衆国で、国を憂うコト、そのスタンスの本来の姿をこのひとに見出す。
故スーザン・ソンタグ。

911後、彼女が遺した発言の重要さは世界全体を見渡しても、日に日に増し、この国でも翻訳ラッシュが続いている。

「他者の苦痛へのまなざし スーザン・ソンタグ みすず書房」

ソンタグが贈る最新にして最後の「写真論」集。
「写真論」とはいってもその焦点は「戦争写真」に注がれる。

写真というのはどうにも即時に事実性に訴える性質を持っている。中でも戦争写真となると、まず被写されたその映像のむごさ、痛切さが、事実関係に疑義を挟むことを躊躇させる傾向がある。

ソンタグは丁寧に「戦争写真史」を辿り直し、戦争写真が直截に、もしくはズバリ「演出なく」撮影されるようになったのは前世紀後半のベトナム戦争以後であることを実証的に論証する。

ベトナム戦争に於いて、戦争写真家たちは初めてテレビカメラとともに被写体を追うという経験を経た。ここで競争相手との関係から演出できない戦争写真の歴史がようやく始まったと知る。

それ以前の戦争写真にはなんらかの演出が施されたものがいかに多いかをソンタグは具体的に検証してみせる。

目から鱗のこの論証。しかし思い当たるフシがある。
第二次世界大戦中、もしくは日中戦争での戦争写真。
その効用は戦争の悲惨へのまなざしを喚起させるものではなく、戦意を昂揚させるものとして使われてきた。
この際、「演出」の頻度はどれ程であったろう?

最近の論争を思い起こす。
南京虐殺の証拠として中国政府が提出して証拠写真のすべてが証拠には値しないと、産経新聞の一面記事が呼びかけた。
またすぐに扶桑社から関連書籍が発刊された。

してやったりと悦に入っているサンケイ扶桑社、また中国政府双方に決定的な反省が欠けている馬鹿げた論争だとどこか醒めた気がして仕方がなかった。

ここでは中国政府もサンケイ扶桑社もともに「戦争写真の無謬性」神話から免れていない。
中国政府の粗忽な写真利用はそのままの意味で、扶桑社サイドの方は「証拠写真はすべて捏造だった」ことの証明ができれば、南京虐殺そのものを否定する「論拠」となりうるという勇みが見える。

かの時代、写真とはどのような役割を果たし、どのような意図の元に撮影され、発表され、保存されたのか?
特に被写体が「戦争」であるとき、国家意志から写真家は自由だったかどうか?
そうした戦争写真史への振り返りが両者共に欠けているからこそ、論争そのものがどこか不毛に感じて仕方がない。

ソンタグの戦争写真論、戦争写真史論は直截、南京については語っていない。ただ、行を読み進めるうちに脳みそが活性する。ああ、なるほどと私が見てきた戦争写真と、その論争の渦中へ私を投げてくれる。
良書との出会いというのはこういう得難い体験。正に「読書体験」があり貴重だ。

ソンタグはこの著作の終盤で、過去の自身の「写真論」に対して訂正を施す。

「戦争写真を見る頻度、その画像の洪水的な量によって、ひとびとのまなざしは徐々に曇る。衝撃に慣れてしまう」

上述のような過去の見解は誤りだったと率直に述べる。

「果たしてひとはソレに慣れることができるだろうか?」

この問い直しは911後の彼女の写真体験そのものから生まれたものだ。
崩壊したグラウンドゼロ。
叫び声まで印画したような写真群。
アフガン、そしてイラク。

恐らくひとは戦争写真に含まれる悲惨そのものにある根源的恐怖に慣れることはできない。
ただ戦争写真を紹介するメディアそのものがテレビジョンという媒体に遷ったがために、まなざしを持つ者が容易にチャンネルを変えることが出来るようになったのではないか? 
こうしたひとと戦争写真との関わりの歴史とその変遷(それは「戦争写真史の発見」だ)の中に「戦争写真の写し映す悲惨が次の戦争を止めるチカラとなりえなかった」理由があるのではないかというのがソンタグと本書の通奏低音だ。

ソンタグの関心を経て、戦争写真との出会いがインターネットというインフラを得てより頻繁になった現況にも同様かつ深刻な問題を抱えていると、私は読み直す。

例えば
ogrish.comでは戦争写真と同じサーバーに、戦争写真が伝える悲惨とはまったく別の文脈から派生したグロテスク(な画像)が置かれている。
両者の共通項はグロテスク、もしくは惨事の瞬間。
一方、その惨事、暴力に関与したものが実際に誰なのかについては共通項がない
(* 暴力の具体性を人間一般に普遍するという考え、形而上の戯れに私は与しない。こと、戦争が問題となっているときに当該国家を問題視することない「はぐらかし」は戦争暴力の主体たる国家を消極的に支援、免罪する)。

戦争写真の衝撃、その被写体にいったい何が起こったのか? について考えたくない夜。
私たちは戦争写真から目を背けるために、そのページを閉じる。
私たちはクリックひとつで「ブラウザを終了する」ことができる。
テレビジョンのチャンネルを変えるように、容易にブラウザを閉じることができる。

今次の戦争中、昨日、今日、明日、戦争写真が配信される。
そこに印画した悲惨へのまなざしにもまた、固有の変化が今私の中で、もしくはメディア・テクノロジーの進展の最中で起こっていた。
「他者の苦痛へのまなざし」そのものにダイナミックに変化する歴史があり、いま正に戦争の只中で反省する機会を与えてくれた本書にはいくら感謝しても足らない。





↑の記事をUPしたあと、アメリカ国防総省から56件、アメリカ合衆国政府から14件のアクセスがありました。
以前からアメリカ政府に関わることを書くとアメリカ軍施設、アメリカ国防省からアクセスがありました。
そして再選後のブッシュ政権誕生からは合衆国政府そのものからアクセスがきます。
記事を詳しく読み込んでいるわけではないでしょう。
ロボット検索のようにネット上の記事を一斉に探しまくる何らかのシステムを持っているのだと思います。
内容まで入り込まずに統計利用程度ではないかと思いたいです。
一方でこうした事態に向かうと思うことがあります。
「権力闘争」「階級闘争」という言葉を死語と片づけることには決して同意できない。
その理由はかように権力サイドは始終闘争の手をゆるめていないのを日々確認するからです。
「権力闘争」「階級闘争」とは、決して被抑圧の抵抗運動にだけ解消されるものではありません。
むしろ常時においては権力側から仕掛ける闘争こそが「権力闘争」「階級闘争」の実相、実態だと感じ入る次第です。
記事内容そのものの附則事項として報告させて頂きます。


2000




差出人: nakao chisato et sonimage groupement info@sonimage.ne.jp]
送信日時: 2000年1月13日木曜日 0:22

件名: ヨハネスの問い


不思議な本を手にしました。一行目に目を通して思います。小説とも、啓蒙の書ともつかない、不思議な本だと。ともかく、何よりも装丁が丁寧なので手にしました。出版社を確かめると、飛鳥新社。そういえば、そんな出版社もあったななんて思いながらレジに並びました。「ヨハネスの問い ハインツ・ケルナー」。帯には「ドイツの不思議なベスト・セラー 1978年にひっそりと発売されて以来、120万人以上の人々に静かな衝撃をあたえ続けている、大人のためのメルヘン」と謳われています。
不思議な本を読みました。「ヨハネスの問い」。そのヨハネスを聖ヨハネのことと決めてかかったぼくは、とても気持ちよく裏切られました。とてつもない懐かしさ、郷愁が全篇を覆っていて、しかし未来に宛てられた作品で、しかしメルヘン、寓話としての出来はいまひとつで、しかし。
聖ヨハネならば、その言葉は「問い」ではなく「教え」として語られます。しかしここでのヨハネスはあくまでも「問い」を読む者に残します。課題のようなものを。ヨハネス、その名はJohannesと綴られます。英名ではJohnですね。
John。JFKではない方のJohn。あのひとのあの曲について、イマジンされています。あの曲が残す問いの実際はどういうものなのか? 著者のハインツ・ケルナーはソーシャル・ワーカーとして働くうちに若い人のためのために本を書こうと思い至った。解説にそう書いてあります。1978年に出版。翻訳の出版は去年、1999年8月のようです。
不思議な本を読み終わりました。問いでありつづける本。素敵な装丁のためだけにでも、お手元にどうぞ。
ヒビノセイカツシャ、なかおちさと。



差出人: nakao chisato et sonimage groupement [info@sonimage.ne.jp]
送信日時: 2000年1月21日金曜日 12:57

件名: FW: cycle des saisons 一夜漬けの効用、
いけじまさま
毎度、毎度の風邪、今回は足掛け3日程度で治りそうです。みんなにも「本当に免疫力がなくなってるんだね」と言われました。その通り。今回も一日、東京を歩きまわっただけで、拾ってきてしまったようです。
近所の中華料理屋さんの出前さんには「あそこの病院は駄目だよ、それなら反対側のすぐ先にいい病院がもっとあるから」って、貴重なアドバイス。この出前のおじさん、風貌は「タコ坊主+サングラス」。一見、任侠の方のようなのに、中身は本当に優しくて、周辺住民のためにご熱心。自治会などにもきちんと通じていて、「いいお父さん」です。うん、おいしい料理のお世話になっています。以前、お店に直接に食べに行ったとき、「お店と出前とでは味が違うでしょ? あれはね、ラップのせいで短時間でも中が蒸れてしまうからなんだよ」と貴重かつ、率直にして良心的なご意見を伺いました。
風邪。ひきはしたものの、長引かなくて済みそうなのは、年明けからの停滞ムードが少しずつ変わり始めたかな? と思えるようなことが続いているからです。何よりも郷からのメール。泣けるほど嬉しい。ただ、「ダイジョウブ」には、まだ自分に言い聞かせているようなトーンも混じっているので全幅の安心なんて、油断は禁物なのかな? でもね、本当にあの班の班員全員に対する態度は「猫可愛がり」。喜び勇んで「頑張れ!」と肩を叩いた瞬間に、「いや、オレの方が負けているのに、頑張れなんてむしろ失礼だ」と反省させられる。なんだか分からないけれど宙を舞ってしまうものです。
プラス、年明けに約束されていた派遣の仕事が、ようやく来週に始動が決定。今週の月曜日には二月中旬にまで延びそうなんです。なんて眩暈がする発言で、実際、めまい。それで急いで場繋ぎの職探し。ウィルスだけ拾って帰って来る毎日でした。そこへ、TEL。来週の火曜日からの始動になりました・・・・・・って。さらに本日、パソナさまからTEL。こちらも待たされていた在宅の仕事について、正式に採用通知。うん、「日々の生活者」の点でいいことが重なって、昨夜までの腹痛も消えていました。
心残りは辺見庸さん。いかがでしたか? 本当に残念。最近、とみに自分自身の世界との向き方を変えたいし、修正を余儀なくされる出来事や出会いが多数で、昨日もきっとそんな日になっていたと思うから。
うん、向井千恵さんのイヴェントの核心がいまになって熟してきました。音楽がやっと分かってきたという感慨。12日(土)、師匠はきっとさらに渾身の力でぼくに教えてくれるって期待大。「見えていた気になっていたものが、実は見えてなかった」と気づくのは、ぼくにとっては本当に嬉しい大発見でワクワクします。過去の自分の至らなさへの反省と恥ずかしさは、それはそれで重いのだけれど、これまでの狭い視界をクリアにされたときの爽快さを享受したいのなら、反省と恥ずかしさを背負うのは当たり前! あの一日のことが、2週間、3週間と経るうちに重みをましてくる。これって「一夜漬けの効用」が、テスト当日よりも遅延して訪れるのと似ています。
年末に読んだミシェル・フーコー「言語表現の秩序(河出書房新社)」、永六輔の「藝、その世界(文春文庫)」、村上龍「あの金で何が買えたか?(小学館)」などの読書体験も、今に至ってじわりと効能が滲み出してきた。
プラス、「さとちゃん」。うん、あのひとはなんであんなに素晴らしいのだろう? 自身の拙いところと真剣に見据えているところ、長所を長所とも意識せずに、でもきちんと自身の核に据えているところ。つくづく平伏、脱帽。ぼく自身へ向ける刃にしたいな。
という訳で免疫力をつけます。健康に関しては本当に「場当たり主義」はいいことないですね。
でも、自分の視野の狭さに気づくためには沢山の「場にあたり」。それを「主義」と呼べるまでに首尾一貫していくこと。「日々の生活者はみんな、その内実において場当たり主義を貫いています」(加えて、池島さんからの梅枝さんへの愚痴にひとつだけ応えると、ぼくは<場当たり主義>という言葉にマイナス・イメージを付加させる連中が、その点において大嫌い。マルクスがいう<生活者はすべて実践において唯物論者だ>というのは、良質の<場当たり主義>を指すと信じています。事前に用意した青写真が場にあたって不要になったり邪魔になったら迷わず、事前の青写真の間違いを疑うべきです。場に当たって、自分が砕けることを恐れている臆病者のように見えます。<だから、さとちゃんなんだよ! と意味不明に思います>)。
わあ、長くなったなあ。郷さまへのメールの転送が本日の趣旨でした。以上、序文。重ねて、昨日はごめんなさい。
追:AOLやYAHOO株の急騰に怖さを覚えます。アメリカのバブル崩壊はいわゆる「ハイテク株市場」の暴落から始まるって、年始の市場の動きを見て感じました。



-----Original Message-----
From: nakao chisato et sonimage groupement [mailto:info@sonimage.ne.jp]
Sent: Friday, January 21, 2000 1:06 AM
To: Shuto kyo

Subject: cycle des saisons 一夜漬けの効用、

Kyoさま
いつの間にか郷からのメールにきちんと<件名>が書かれているようになっていて、なんだか嬉しかった。うん、学生のみんなに宛ててE-mailを開始したのはそれなりの理由があってのことだったから。
年明けに約束されていた派遣の仕事が来月まで先送りになってしまった。さて、急いで職を探すと、毎度の如くwordにExel、それに power pointが必須条件になっている。みんなマイクロ・ソフト製品だ。アメリカ本国での独禁法訴訟などどこ吹く風? 
この際、対処の仕方はひとそれぞれ。逆らうこともできるし、順応することもできる。ただ、「逆らう」には「闘争」と「逃走」のふたつの道筋がある。「逃走」も「闘争」の表現だったりもする。ただ、闘うにしても、順応するにしても、相手の正体を知らないとね。
さて、学生班の現状も嬉しかったけれど、懐かしく、そして大切にして欲しいなんて祈ってしまうのが、年度末試験のこと。ああ、そうだ! この季節だった!
ぼくはろくでなし学生の模範のようで、大教室や出席を採らない講義には出なかったり、出られなかったり。なので、この季節は、一度も講義に出ていない科目の勉強を一夜、二夜で済ますことに懸命だったなって思う。焦燥感はすごく逼迫していて、ナーバスな状態だったけれど、分厚い教科書、分からない言葉を読み飛ばしながら理解するっていう、あの日常では稀有な読書形態には不思議な爽快感があったなあって。
一遍の行が新しい視覚を瞬時にくれる。え、ああ、そうか、そういう考えもできるなあと、教科書のページを捲る手がぴたっと止まって、次の瞬間、これまでの思考の仕方が根本から崩されるときのなんともいえない感慨。でも、一夜漬け。その効用はテスト当日から、早くても2週間遅れでやってくる。自業自得。でも、付け加えておくと、ぼくの「学部」は当時、卒業に必要な単位数が日本一で、当然(?)、留年率も日本一の「学部」でした。
さて、件名「cycle des saisons」、スィクルデセゾンと発音。ときどきフランス語のほうが日本語や英語よりも先に脳裏に浮かぶときがあるのに、ぼくはフランス語の初歩的な会話もできない(と思う)。で、これが一夜漬けの効用。日本語では確かに「循環」。でも、なんか違和感。英語のcycleサイクルなんて綴りも一緒。なのに、これも違和感。Saisonsは季節。これまた、日本語もseasonsもしっくりこないから仕方ない。うん、一夜漬けの効用は厄介なんだけれど、言葉にまとわりつきたがる意味や雰囲気を、つまり語弊を豊かにしてくれて感謝。
スリル満点の年度末試験。楽しんで乗り切ってね。



「小説のドキュメント」

なかおちさと





 (前略)村上春樹との関係について質問すると、「年に一回くらい会って一杯やるような親しい関係」と答えた。「年に一回会う仲が親しいと言えるでしょうか」と聞きかえしたら、彼は「心の問題でしょう」と答えた(「村上龍って誰? 韓国人が読んだ村上龍」幻冬舎刊二十九頁)。
 ぼくは右の村上龍の発言を頼って、いささか乱雑に以下の推察を描こうと思う。村上龍、村上春樹。この同姓作家ふたりの近年の仕事を、乱雑にひとつのタームで束ねてみるという古くからある試み。ただし、タームに新鮮さを加味せよ。そのタームとは、「ドキュメント」である。

 T

 最近、集英社より「村上龍自選小説集」なるものの発刊が再開した。その刊行再開第一回の小説集5、サブ・タイトルが気になる。
 「ドキュメントとしての小説」
 収録された小説を追ってみると、村上龍が残した近年の秀作が並んでいる。
 「オーディション(一九九五年〜九十六年)」
 「ラブ&ポップ(一九九六年)」
 「イン・ザ・ミソスープ(一九九七年)」
 「ライン(一九九六年〜九八年)」
 「寂しい国の殺人(一九九七年)」
 さて、ここで試みに「DOCUMENT」という単語を英和辞書で紐解いてみよう。研究社の英和辞書に依ると、そこには名詞と他動詞の二通りが紹介されている。
 名詞では、「文書」、「書類」、「調書」。他動詞では、「文書で証明する」とある。
 安易に直訳すると、村上龍自選小説集5のサブ・タイトルは、「調書としての小説」とするのが適当か。なるほど、小説集5のラインナップはそのサブ・タイトルに相応しいものばかりであろう。そして思う。ひとつ、最新刊の「共生虫」は明らかにこの「ライン」に乗るものであろうコト。ふたつ、こころにおいて親しいとする村上春樹の近年の仕事も、また「ドキュメントとしての小説」と呼ぶに値するといえないか?

 U

 村上春樹が「アンダーグラウンド(講談社)」を世に問うたとき、不思議な反応があった。
 「なぜオウム、地下鉄サリンであって、阪神大震災をテーマに選ばなかったのですか?」
 こうした疑問は、村上春樹が兵庫県の出身であるというバイオグラフィへのこだわりであった。こうした質問に対して村上春樹は割合と丁寧な返答をしていたのだと、いまにして思う。阪神大震災という問題を、客観視できる余裕がないからですと。
 ここでの村上春樹の発言に対する受け止め方として、ぼくは決定的な間違いを犯していた。その発言が呼ぶ印象から、彼はこのさき阪神大震災についてなにかを書くということはないのだろうと。
 「神の子どもたちはみな踊る(新潮社)」
 驚いた。「地震の後で」と銘打たれた連作小説の出版である。地震、それは紛れもなく阪神大震災を題材にしていた。ぼくは発言の受け止め方、いや前提を間違っていた。村上春樹は「ノン・フィクションの形態を借りてでは、阪神大震災を書く余裕がない」と述べていただけなのだろう。つまり、ひとたびイマジネーションに昇華させれば書き得る。また、正に書き得た証として、著作が書店に並んだということ。書店にて丁寧な装丁がされた美しい本を手にしたその時点で、ぼくは感動せざるをえなかった。きっと大変な「乗り越え」が必要だっただろうと、村上春樹の誠実さを思うのである。

 V

 いわゆる酒鬼薔薇事件の最中に、読売新聞に連載されていた村上龍「イン・ザ・ミソスープ(読売新聞社)」は大変な反響を呼び起こした。物語が凄惨さを帯びるごとに読売新聞の不謹慎を罵る声まで出る始末。しかし実際、ぼくは「イン・ザ・ミソスープ」を「実作として称えられない」。作品に向かう気概は買えるが、完成度に不満が残る。叙述における密度の薄さがもの足りない。初期三作「限りなく透明に近いブルー」「海の向こうで戦争が始まる」「コインロッカー・ベイビーズ(すべて講談社)」で見せ付けられた叙述の濃さ。「イン・ザ・ミソスープ」にはそれが決定的に欠けている。叙述の薄さがこの作品が扱うテーマにとっては致命傷となってしまっている。村上龍はもう駄目なのか?
 「イン・ザ・ミソスープ」発表後、この作家にふたたび与えられたスポット。このスポットの質が文学者に求められるものとは色が違うことに、まず村上龍自身が確信し、それ故にこのスポットを全身に浴びる覚悟を決めたのだろう。スポット。
 「イン・ザ・ミソスープ」は、ぼくの感想をよそに、新聞の文芸欄で喝采とともに受け入れられた。この「新聞の文芸欄」という点がどこまでも重要に思う。「イン・ザ・ミソスープ」に向けて文学界からの賞賛は少ない、もしくは目立たない。しかし「新聞の文芸欄」は騒ぐ。「事件調書としての小説」、なるほど。
 続く小品「寂しい国の殺人」、長編「ライン」に至って、村上龍の叙述には、筆が乗るという形容が相応しいように、叙述における濃さ、執拗な描写が甦ってきた。もと映像作家を志し、小説は暇つぶしに書き始めたという男の資質。描写、ディテール、カメラ・アングルへのこだわりが息を吹き返してきた。そしてスポット。社会の周縁部の歪みを描く著述家としての期待に村上龍は自ら応えてゆく。それは文学者の仕事ではないという罵りがある。当たり前だ。そして当たり前すぎて効果がない。村上龍にとっての小説は、狭く文学を意味しない。そういうメディア。訴求効果と可能性が期待できるメディアとして村上龍は小説を書いてきたし、これからも書きつづけるであろう。
 「共生虫(講談社)」の主たる題材はなにか? 一言で要約することはできない。「引きこもり」というタームに題材のすべてを求めるにはあまりにも枝分かれする筋書きが気になる。ネット社会のいびつが主題としてもいいだろう、暴力のカタルシスが人間に訴え突き動かすときという視点も成り立つ。カメラ・アングルはズームと展望を繰り返す。社会の周縁部でこそ、この社会そのもののいびつさが凝縮された形で実在するという確信。つまり、確信犯、村上龍の核心、照準は、社会周縁部ではなく、社会そのものになりはしないか。これが一九九〇年代、村上龍の仕事を貫いていたものであったと知る。かくして文学界は村上龍を証券アナリストと罵り、「新聞の文芸欄」では最大級の賛辞が贈られるという不思議な現象は加速する。「共生虫」は決定打だ。叙述の濃さが甦り、小説としての力をふんだんに盛り込みながらも、社会観測ともいえるフォーカスを捨てようとしない。ここで旧来の小説のフォーカスには、デビュー以来、無関心だった小説家の姿。それでもとにかく書字によるあたらしい媒体、メディアを造らなければいけないとする不思議な小説家の姿が鮮明になる。
 そう、きっと村上龍は旧来の小説のフォーカスを、映像作家として退屈に感じつづけていたのだと記憶したい。いわゆる「引きこもり」が中央のメディアで社会問題になりはじめたのは昨年暮れあたりからのこと。「共生虫」は雑誌「群像」の一九九八年一月号(つまり構想されたのは一九九七年になる)から連載が始められた。この男を「小説家」という枠で括ってよしとするのは怠慢であり、おそらく正当な批評の場は、いまの日本の文学界にはない。

 W

 村上龍がこころの領域で親しいと呼ぶ友、村上春樹もまた「事件調書としての小説」を問うた。「神の子どもたちはみな踊る(新潮社)」である。
 社会的な問題への切り込み方が消極的といわれていた村上春樹であるが、仔細に読み込むと「羊たちの冒険(一九八二年)」「ダンス・ダンス・ダンス(一九八八年)」「国境の南、太陽の西(一九九二年、すべて講談社)」などにすでに散見される。それでも「ねじまき鳥クロニクル(一九九二年〜一九九五年、新潮社)」で、井戸に深く潜り込むという小説内での描写そのままに、村上春樹は、ここで、この作品にて、底深いバック・ボーンを鍛え上げながら小説という作法で社会とのコミットを探ってゆく。いま思うに大変チグハグな構成という欠点を持ったこの作品(なにせ第一部、第二部で重要な役割を担った登場人物が、第三部では跡形なく消えてしまう)こそ、これからの日本文学の出発点であると確信させられる作品はない。決定的なのは「あちら側」「こちら側」という一見すると単純な図式に、両義的な意義、含みを持たせ、なおかつ快活に「僕」を「こちら側」に立たせた点である。両義的な「こちら側」とは何と不思議なものであろう。しかし、あくまで小説内でそのことを疑問に付させずにしがみ付く村上春樹の忍耐力よ。そして村上春樹はこの忍耐力を持続させながら、短編「七番目の男(一九九六年、短編小説集「レキシントンの幽霊」所収)」長編「スプートニクの恋人(一九九九年)」などの小説、「アンダーグラウンド(一九九七年、講談社)」「約束された場所で(一九九八年、文藝春秋)」などのノン・フィクションを書きつづける。最新刊「神の子どもたちはみな踊る」でも、村上春樹は作家としての姿勢を崩していない。むしろその姿勢は強靭なものになったとすら感じ入る。以下、論考。

 X

 「神の子どもたちはみな踊る」の各小説を辿るのは、いずれ機会をまたにしたい。ぼくがこの連作小説集を読み始めたときに覚えたものは、村上春樹が曖昧さをこそ武器にしていた時代の代表的な短編集「中国行きのスロウ・ボート(一九八三年、講談社)」から立ち昇った、あの芳香に似ているという印象である。読後もこの印象は払拭されるどころか、固く、確かなものにまで成長した。しばし懐かしいこの香りに頁を捲る手を休めて楽しんだ。しかし「中国行きのスロウ・ボート」は、「こちら側」に立つという決意以前の産物。素晴らしい作品集であることに違いはないが、似ているとはどうした訳か? その理由は明白だった。エピソードは、頁の終わりに至ってもなにひとつ解決していないということ。しかし「神の子どもたちはみな踊る」のそれぞれの作品に終わりらしきものはなくても、曖昧さは微塵もない。可能なる未来だけが残されている。むしろ、この「可能なる未来」のためにこそ、物語は「余韻残しという未完」を余儀なくされたとすら感じる。村上春樹はすでにこの点で確信犯に成長している。
 いまアメリカの精神医学界を中心に「トラウマ理論」という論争が真摯に行われている。いわゆるPTSD(トラウマ症候群)に関しての緻密な議論の構成に急いでいる。事情は精神医学への不信を買った、とある訴訟に端を発している。PTSDの論争以前にアメリカの精神医学界を席巻したAC、アダルト・チルドレン理論に絡んだ訴訟である。
 精神科医に「あなたはAC(幼少期に両親になんらかの事情があり、心的傾向を捻じ曲げられた末に、社会不適応を余儀なくされた)です」と診断されたこどもの両親が、反対に、この精神科医を相手取って、こどもを不当な誘導尋問の要領で診断したとして起訴。結果、両親が勝訴を得た事件が全米に報じられた。これによりアメリカの精神医学界は、従来のカウンセリングが自明としていた「証言可能性」を再考に付しなくてはならなくなった次第で、トラウマ理論は白熱している。幸い、この議論の参加者は歴史の証言可能性を全面否定しないように、慎重に議論を進めている。それでも従来のトラウマ概念の曖昧さへの反省から「傷つきやすいこどもという神話」という本がカウンセラーの教科書になるに至る。
 日本でPTSDが問題になり始めたのは、地下鉄サリン事件や阪神大震災のような大規模災害であるために、ACという一家庭内で起こる事件にまでトラウマ症候群、PTSDが語られるのは不思議に感じられるかもしれない。一方、アメリカでもベトナム帰還兵に現れた症状を、これまで通り戦争症候群などと曖昧な用語で済ますことが許されなくなって初めてPTSD、トラウマ症候群が語られ始めた。この理論がさきのACのような幼少期の、それも一家庭内での問題にまで踏み込んで行かざるを得なかったのは、言うまでもなく、全米で幼児虐待が深刻化していった背景があるからだ。
 ここまでの議論の推移こそ注意して欲しい。最初は想像を越えた大規模な災害に際して現れるトラウマ体験(口述説明に譲る)が問題になり、やがては一家庭内での問題に敷衍されたという経緯。大雑把で乱暴ではあるがPTSDの原因となる要素は社会構成(国家、地域、家庭)を選ばないこと。そして、社会構成は選ばれないが、結果としてトラウマ症候群を引き受けるのはあくまでも一個人であるというコトだ。
 「神の子どもはみな踊る」においても、クローズ・アップされるのはトラウマ体験を毎日、引き受ける個人の姿である。ここで立ち止まる。個人へのクローズ・アップは「中国行きのスロウ・ボート」時代の村上春樹作品の核心であった。しかし、「神の子どもたちはみな踊る」はまさに理不尽な暴力を至高の権限で振るい得る神が明白に背景に潜む。その子どもたちが災厄を引き受ける。まさに社会にコミットし、生活する一個人、神の子どもたちへのクローズ・アップである。災厄によるPTSD、その治癒と完治は容易ではない。よって物語は未完を与儀される。しかし例えば収録作「アイロンのある風景」のラスト・シーン(六十六頁)の見事さよ。主人公たちは「いやでも目は覚める」と自覚しつつ、焚き火を灯す。未完だが、「中国行きのスロウ・ボート」時代の曖昧さはない。登場人物たちはみな容易ならざる治癒の過程にいまだ残されるに過ぎない。
 実はと書く。村上春樹はデビュー以来、常にPTSDの過程にあるひとびとを書きつづけていた。傷ついたものの場所から書きつづけてきた。デビュー作以来、ずっとだ。PTSDでのトラウマ理論を援用できる災厄はなにも社会的に大きな出来事とは限らないという点に注意して欲しい。村上春樹は「アンダーグラウンド」で地下鉄サリン事件を扱って初めてPTSDにこだわったわけではない。その直前の仕事「ねじまき鳥クロニクル」で扱われた妻の失踪。そしてノモンハン事件に係わった人間の不幸を思い出して欲しい。そうしたエピソードもまたトラウマ体験になり得る。それでも、いまの村上春樹を以前と区別する重要さを指摘したい。
 「神の子どもたちはみな踊る」。治癒過程であるという自覚が鮮明であるからこそ、登場人物とともに、可能なる未来を、「こちら側」にて、一緒に探そうとする村上春樹の姿勢が毅然として、逞しいものに映る。
 逞しい。
 この言葉は「中国行きのスロウ・ボート」時代の村上春樹には想像し得なかった形容だろう。

 Y

 かつて村上春樹は、村上龍について「同時代に彼がいるということが、僕が小説を書くときに勇気付けてくれる」と語ったことがある。
 「ドキュメントとしての小説」
 村上龍は好んで邪道に、村上春樹は彼自身が王道になる(武田泰淳などのいわゆる難文学を除くと、語りの王道の発明に成功したひととしては、ひょっとしたら夏目漱石以来の存在かもしれない)。そして僚友たちはそれぞれの流儀でいま「事件調書としての小説」を描きつづけている。さて、
 さて、「ドキュメントとしての小説」。それ以外に、これからの小説作法はありえるだろうか?

 小説のドキュメント(了)


「あのひとのテクスト」

1、「僕をロールしたのはロックだけだった」
ジョン・レノン

2、黒人がブルースなど憂愁を帯びた演奏に長けている理由は、「黒人は長い間、過酷な人種差別などの社会的な条件に晒されていたからではないか?」という、したり顔の白人ジャーナリストの指摘に対して、晩年のマイルス・デイビスは答えた。
「なにを言ってるんですか? わたしはバークリー音楽学院出身という名門校の出身です。わたしの家は裕福でしたよ。音楽的なことに限って言えば、不思議なことに白人はビートに遅れるところがあるんです」

3、「ジョン・レノンの凄いところは、普通の下町の不良少年が自力でラブ・アンド・ピースにまでたどり着いたというところなんだよ」村上龍

なぜ、ロックは「反抗の音楽」なのか?
なかおちさと


            




表題の「あのひと」とはまぎれもなくジョン・レノンでもあって、ジョン・レノンのことだけでもない。「他の誰か」、そう、たとえば特にブライアン・ジョーンズがいた頃のローリング・ストーンズでもいいし、THE WHOでもいい。
さて、この「どっちでも、誰でもいいよ」という理由は、副題の「なぜ、ロックは反抗の音楽なのか」の解明に掛かっている。、、、、、、のだけれど、その答えは至極簡単で、冒頭の証言2を読み返して終わり。マイルス・デイビスが、特にジャズに的を絞って答えている発言。これだけで九割方、お話が済んでしまっている。
要するに「白人は不思議とビートに遅れるところがあるんだ」
ねえ? ただの会話をも見事にビートに乗せて、「ラップ」という音楽がいとも容易く出来上がる。恐らくNYで普通に始まった「ラップ・ミュージック」が、市場で取引されるように商品用途として綺麗に「ラッピング(包装)」されるまでの時間。その潜伏期間はごく短いものだった。当時、NYにはリック・ルービンという凄腕の白人プロデューサーがいたんだ。彼の手に掛かれば、街のざわめきもレコードになる。うん、リック・ルービンの「耳」は、本当に「音楽家の耳」だった。
「ラップがキャラメル包装紙にラッピングされるまでの潜伏期間は短い」
これは飽くまでも比較論の粋を出ない。そう、例えばブルースやジャズが市場に乗るまでの苦難と比べれば、というお話だ。
試みにロックン・ロールの始祖をチャック・ベリーという黒人ミュージシャンに求めてみよう。ブルースやジャズに比べて、こちらも市場での取引きに至るまでの道筋は短かった。ただし、「ラップ」よりは恥辱に塗れた歴史を持っている。
さて、問題はここだ。ねえ、果たしてロックン・ロールの始祖は本当に黒人チャック・ベリーでいいのかなぁ? そうして議論の大前提そのものを疑ってみるといい。リッチー・バレンスは? それにエルビス・プレスリーは? ロックン・ロールに纏わりつく「反抗」のイメージは、その始まりにおいては虚偽、幻想だ。ロックン・ロールは、「音楽的には」ブルースという長く辛い前史を根本にしているにも関わらず、「商品としては」あらかじめ、市場の只中で生まれた。
メンフィスにスタジオを持つレコード会社。そこにオーディションを受けにやって来た白人少年。彼の風貌は麗しかった。「音楽的に稚拙」と、初めから少年を切り捨てようとしたディレクターの意思を蹴って、「彼には光るところがある」と秘書は食い下がった。これがエルビス・プレスリー伝説誕生の瞬間だ。
あらかじめ求められていたのは風貌だった。風貌のおかげで、彼の「稚拙」な音楽も、どうにか綺麗にパッケージされて市場に出回ることができた。
秘書の閃きに適って、エルビス・プレスリーはスターダムへとのし上がってゆく。音楽は後から着いてきた。それも依然として「稚拙」なままだった。つまり「不思議とビートに遅れるところがある」。しかし、いいのだ。ときは一九五〇年代。テレビジョンという新しいメディアも、アメリカ国内の裕福な家庭には浸透しきっていた。歌が上手くては話にならないラジオの黄金時代とは、求められているものがあらかじめ違っていたのだ。彼の透き通るような白い肌。おまけにその厚い胸元を強調させよう。次いで、もっと可愛い風貌の少年たちが後に続いた。ビーチ・ボーイズの「サーフィンUSA」は、黒人ミュージシャン、チャック・ベリーの「ジョニーB・グッド」をパクった「まがい物」だった。そのくせ、本物よりも人気を博した。「不思議とビートに遅れる」「稚拙」な音楽は、まずブラウン管を通してアメリカ全土に広まり、程なくしてイギリスへと配信された。
証言1、「僕をロールしたのはロックだけだった」ジョン・レノン
ジョン・レノンは正直な男だ。この発言は間違いなく優れた音楽家の直感によるものだ。
そう、「不思議とビートに遅れる」「稚拙」さ。さらに、絶え間なく新しい曲を市場に送り込むために競争原理が否が応でも働く。この粗製濫造の現場こそが「あたらしい音楽」を生ませた。この「不思議とビートに遅れる」、つまりマイルス・デイビスにとっては特に白人に特有に見られる「へたくそ」であるところに、ロック音楽の魅力と秘密がある。「不思議とビートに遅れる」その音楽は、不思議に身体をロールする。ジョン・レノンの発言の骨子はどこまでも大切だ。つまり「反抗の音楽」という幻想は、音楽唯物論に照らしても確固たる根拠がありそうだ。しかしこの「反抗の音楽」を決定付けるためにはエルビス・プレスリーの歌唱は上手に過ぎたということ。この生まれたての音楽には、もっとへたくそな連中にこそ適う。
ビートルズや、それに引き続くローリング・ストーンズ、キンクス、WHO、スモール・フェイセスなど、当時、その名も「ブリティッシュ・インヴェイション(英国の侵略)」の波がアメリカ合州国を襲う。ご本家だったはずの、エルビス・プレスリーもビーチ・ボーイズも、揃って大英帝国復活の秘密の正体を見抜けないままに震え上がり、やがて精神に変調をきたして溺れるように沈んでいった。
「へたくそ」といえど、土着の音楽としてブルースと親しんでいたアメリカの音楽家。実際の彼らは、ロック音楽を施行するには素養に恵まれすぎていた。もっとブルースの素養に恵まれていなかったイギリスの少年たちの方が、「よりへたくそ」である点で、ロック音楽だけに限って、その素養には恵まれていた。
英国。かの島国で、ギターやベースを最初に抱えたのは、イギリス国内でも「あたらしさ」を競い合うことが生活習慣として身につけていた、しかし音楽家としてはド素人のアート・スクール(美術学校)の生徒たちだった。
英国に漂う「今日の退屈」という空気。そいつをどう紛らわせようか? 大陸からやって来た原初のロックン・ロールは格好のアイテムだった。本日のキィ・パーソン、ジョン・レノンもその例外ではない。ロック音楽の素質だけに恵まれていたアート・スクールの落ちこぼれのひとりだった。
証言3、「ジョン・レノンの凄いところは、普通の下町の不良少年が自力でラブ・アンド・ピースにまでたどり着いたというところなんだよ」村上龍
村上龍の指摘の通り、ジョン・レノンの魅力は、やがて彼の思索にも現れてゆく。それもロック音楽というメディアでは非常に重要な要素の詩作に明らかに、そしてスタジオでの楽曲の試作に、加えて音楽商品をどう市場に送り出すかという施策の形に結晶する。そのすべての革命の現場に、ジョン・レノンは首謀者として名を連ねる。努力のようだ。ジョン・レノンという音楽家に「天分」と呼ばれるものを見いだせられるのは、その声だけだ。
ジョン・レノンの歌声の波長は「F分の1ゆらぎ」と呼ばれる極めて貴重なものだ。この「F分の1ゆらぎ」の声とは森本レオなどのナレーターに多いことが判明している。測定器機に掛ければ「F分の1ゆらぎ」と判明する。ただ、波長機を仕掛けるそれ以前に、スピーカーを揺らす声の不思議な魅力にひとは自然と注意を引かれることだろう。
天分。ジョン・レノンの一番分かり易い魅力はその声が極めて稀な「ゆらぎ」を刻むことにあった。イギリス全土の若者を最初に惹きつけたのはこの天分といって差し支えない。というのに、「その先」も、ジョン・レノンが特別でありえたことは、この「F分の1ゆらぎ」理論だけでは説明しきれない。波長機ばかりに頼って音楽唯物論を気取っても格好がつかない。別の角度からの探求、別のモノサシが必要みたいだ。
まず、分かり易いジョン・レノンの功績は詩作上での革命。これが顕著に表れだすのは1965年発表の「ラバー・ソウル」というアルバム辺りからだ。間違っても前作「HELP!」の歌詞で自身の内面を吐露したという通説にはついてゆきたくない。その線からの評価ではミック・ジャガーが、当時の恋人だったマリアンヌ・フェイスフルに捧げるために、相方のキース・リチャードとともに初めてオリジナル曲を書いた「アズ・ティアーズ・ゴー・バイ」。ここでの内面描写の方が、時期としても早いうえに、内容も完成度も深くて濃い。ましてやアメリカのボブ・ディランを引き合いに出しての勝負では争うまでもない。それでもアルバム「ラバー・ソウル」でジョン・レノンが起こした「音楽詩」上での重要な革命はポピュラー・ミュージック史上に残る初の功績と信じたい。ここにおいて初めて「音楽詩」に「他者性の介在」を足がかりにした「自己省察」が登場する。もう「助けて!」という単調な叫びではない。「NOWHERE MAN」を聴こう。
「まったくもって所在ない男、自分だけにしか所在の知れないところに落ち着いて、まったくもって自分以外には仕様のない想いに耽っている」「ねえ、そこの所在も知れないきみさ、きみ自身にこそ所在の知れないものがあるってことを想像してみなよ、そう、そんな仕様のないきみだって、この世界の司令塔なんだぜ」「自分がどこにいるのか? その所在を確かめるには視界が悪いね。ねえ、きみさ、本当に僕のこと、見えているのかい?」
「HE」は「所在ない男」として紹介される。ブリッジを挟んだその後に、さっきまでの「HE」に対して気易く「YOU」とジョン・レノンは呼びかける。さて、ジョン・レノンの歌声が「ねえ、きみさ、本当に僕のこと、見えているかい?」と進んだところで、この詩のカラクリが深刻なトーンを帯びてくるのに気付かされる。なぜって、「HE」でも「YOU」でもどちらでもいい。とにかく、「本当に」、「ME」が見えるかい? なんて要求しえる「他者」っていったい誰で、何処にいるのか? この詩に一回も出てこない主語としての、主体としての「I」以外には思いつかない。
仮にこの曲の歌いだしが「SHE」だとしたら安心できる。これなら、カノジョに向かって、「ねえ、本当にぼくのこと見えてる?」なんて陳腐なラブ・ソングだと解釈できるからね。しかし飽くまでも歌いだしは「HE」。それも「NOWHERE MAN」というから始末が悪い。
自己省察という作業そのものの過程を思い浮かべて欲しい。自身の中に他者性を介在させてこそ始めることができる、あの「客観的に自分を眺める」という作業のこと。同時期に、自己省察を歌詞の中に育んでいたボブ・ディランにしても、自身を「YOU」と置き換えるまでが限界だった1965年、つまり同じ年にボブ・ディランの口から産み落とされた名曲「LIKE A ROLLINGSTONE」を聴こう。
「ねえ、どんな気がする? 帰る道もないんだってね? ねえ、どんな気がするもの? まるで転がる石になっているってことは?」
ここで訊ねているのは「YOU」に置き換えられた「ME」だ。さすがにボブ・ディラン。この曲も「I」を用いて公衆の面前で拗ねてみせるような真似はしない。でも、その分、「HE」も用いられていない。
「HE」が「YOU」になり、「ME」にまで近づく。僅か2分42秒の楽曲の中で。「HE」から「YOU」を経由して、飽くまでも「ME」に辿り着かざるを得ないのは「自身の所在も知れない」男のなせる業だ。
「転がる石」という「モノ」ではなく、「どこにもいないひと」という虚無と隣り合わせる人間に向かって自身の実在を確認してみなよって促す。そんなアイディアは全盛期のボブ・ディランをしても想い浮かばなかったようだ。
「LIKE A ROLLINGSTONE」という至福の名曲は6分9秒も堪能できる。その点「NOWHERE MAN」は僅か2分42秒しかない。時間は問題ではない? 確かにそうだ。たるみなく6分の楽曲を聴かせられるボブ・ディランの力量は素晴らしい。ただ、自己省察のシステムを2分42秒に縮めて提示したジョン・レノンの革命の意義もまた無視できない。比較にあげたのは偶然、どちらも1965年に産み落とされた名曲という共通項だけが比較に付した要因。他意はない。
その後に連なるジョン・レノンの詩作の変遷は、聴く者が聴くモノを聴けばいい。ただ余りに詩の内容に生真面目さばかりを追求して、ジョン・レノンが愛した、ときに混じる「屑モノ造りへの執着」を聴き逃さないでくれればいいな。
次なる思索は楽曲における試作となって現れる。メロディ・ラインを多声的にする事で、あたかも違う曲を一度に鳴らしたような錯覚を聴くものに与えるというポピュラー・ミュージック史上で余りに重要な功績。この点ではコーラス・ハーモニーでのポール・マッカートニーの独創性に助力をいただいてのことなので割愛。ジョン・レノンだけの功績は、スタジオ・ワーク、もしくはテープ操作などの現代音楽での実験をポピュラー・ミュージックにいち早く取り入れようとした点にある。これは楽曲を例にあげるしかない。
1966年発表のアルバム「リヴォルバー」の最終曲。「TOMORROW NEVER KNOWS」が最初の完成形だ。ただ、この点で注意が必要なのは1966年という年。この頃、テープ操作というスタジオ技術を用いた実験音楽には、もう既に40年来の実績があったということ。つまり音響機械と記憶装置の発明そのものこそ、こうした実験音楽を可能にさせた。特にイタリア、フランスなどではだ第二次世界大戦以前に早々と市民権を得ていた。
ではジョン・レノンの功績はどこにあるのか? 当時、現代音楽はひとつの楽曲を、ひとつの核に収斂させること旧来の音楽からの伝統から「如何に逃れようか?」と必死だった。この闘いは今日まで、まさに「ビートルズ」への誤解との闘いの形で残り続けている。「ビートルズが始まりではない」「ビートルズで音楽は終わらない」という必死の想いがある。ここでの「ビートルズ」はビートルズそのものではない。要するに「整った、完成度の高い、ポピュラー・ミュージック」と同義だ。ではなぜ音楽家は括弧に括った「ビートルズ」と闘おうと挑むのか? そこには聴く者に、「私が造ったこの楽曲に耳を傾けている間にも、実在するこの世界から耳を離さないでください」という注意を促そうとする音楽家たちの痛い反省が込められている。これは音楽が政治の道具として、ハッキリした形では、戦争を煽る政治的なプロパガンダや、ナショナル・アンセムに使われたことへの反省。深いところでは、より「ひとの知覚の扉を広げる」ことへの挑戦、野心が潜んでいる。そして括弧に括られない等身大のビートルズがポピュラー・ミュージックの中で試みたものこそ、同じく「知覚の扉を広げる」仕事だった。率先した当事者はまたしてもジョン・レノンだ。さきの「TOMORROW NEVER KNOWS」。歌詞内容をあまりに乱暴にしたくないのだけれど、この曲では要するに「悠久を行くつもりで日々を生きる気になってごらん」と謳われていると約しておく。さて、その内容を音楽表現にて「どうやって伝えよう?」。最後のフレーズが特に重要なのだから大変だ。曰く「TO THE END OF THE BIGINNING」。始原の果てへ向かう? さて、この歌詞内容の表現するためにジョン・レノンはどのような手法を用いたのか? いまでこそ、いや、当時でも珍しくない手法だったテープの逆回転を効果的に使った。珍しくないというのは音楽というフロアを巨視的に眺めたときにだ。飽くまでもポピュラー・ミュージックの世界に限ると当時では斬新に過ぎた。現代音楽とポピュラー・ミュージックを「自覚的に」クロス・オーヴァーさせた歴史的な瞬間。革命の当事者はまたしてもジョン・レノンだった。
ただ、こうした試みには早々に飽きてしまうというのが、またジョン・レノンらしいところで、名曲「STRAWBERRY FIELDS FOREVER」を同年に完成させてしまうと、、、、、、、以後、ビートルズでは、飽くまでも音楽をシンプルにロールすることに懸命になる。きっかけはひとつの出会いだった。天才という冠はカノジョにこそ相応しいものだった。才女、オノ・ヨーコとの出会い。
オノ・ヨーコにビートルズは必要なかった。ジョン・レノンという名前も、ビートルズという名前さえもカノジョは知らなかった。一方でNYの革新的な芸術家の間で、オノ・ヨーコの名前を知らないものはいなかった。オノ・ヨーコの残した音楽作品は未だ聴き尽くされてはいない。「ソレガナンナノカ?」という問いに焦るひとは、「分からない」と自らの「知覚の扉を閉める」態度に出てしまう。この「今までの経験では理解し得ないという、諦めに根付いた締め出し」こそ、「有事」に際して最悪な態度を選ばせるものなのよ。オノ・ヨーコは戦後第一世代の芸術家として作品の中でその想いを結晶させていた。世界大戦後にすべての表現者が背負う責務と真剣に向かい合っていたのだ。
このオノ・ヨーコとの出会いでジョン・レノンは死に別れた母親を取り戻した心境になったという。ジョン・レノンは無邪気にロックをロールさせるという、少年の頃のあの感覚を体内に取り戻そうと、スタジオ操作での遊びは私生活へと潔く退けた。その分、遊びもまた過激を極める余裕が生まれた。だからビートルズでの実験はもう必要がない。この時期のビートルズの音楽的実験はポール・マッカートニーとプロデューサーのジョージ・マーチンに任せていればよかった。それでよかった。 いや、本当にそれでよかったのだろうか? 発表当時の評判よりも、現在の評価が格下げされているアルバム「サージェント・ペパーズ・ロンリー・ハーツ・クラブ・バンド」。
ジョン・レノンのこのアルバムへの無関心が寂しい。一時はロック音楽を芸術にまで高めたと評価されたのにナゼ? 
実はここで、ジョン・レノンは陽影で思索を練っていた。この当時にジョン・レノンが抱え込んでいた思索こそ、今日のアーティストの作品発表における施策を決定付けさせた。アーティストの思惑通りに曲順を並べる。アーティストの思惑通りに市場に作品を送り出す。そうしたいまでは当たり前とも思われる音楽配信の在り方。しかしその歴史は思いの他、浅い。レコード会社の勝手だけがまかり通っていた。レコード会社は曲の差し替えなど、アーティストの許可なしに行うことができた。この悪習はクラシック、ジャズ、ポピュラーなどの音楽上のジャンルなど一切問わない。そしてこの点では、それまでのビートルズでさえ例外ではなかった。
きっかけは、デビュー当時からの敏腕マネージャーだったブライアン・エプスタインの死去だった。この男の死去の報に一番動揺したのがジョン・レノンだと謂われている。「ワガママ」もそこそこに通させてくれた男がこの世を去った。父親を知らないまま、叔母の家に預けられて育ったジョン・レノンのもとにブライアン・エプスタインの死去が告げられた。ジョン・レノンという男が、この時点でまた父親に去られたような心境になったと想像するのは邪推だろうか? ともかくジョン・レノンはポール・マッカートニーとともに自らのマネージメント会社「アップル・レコード」を立ち上げる。以後の数年間、ジョン・レノンはこのレーベルから限りなく自費出版に近い形で作品発表を行っている。発表された作品の多くがオノ・ヨーコとの共作による過激な実験音楽だった。いまでいう独立系音楽家のハシリにジョン・レノンの名前があるのは不思議なことだろうか? いや、

いや、
ねえ、いま銃声が聴こえなかったかい? それっきり、テクストが寸断されたままなんだ。
ナチスのゲシュタポに追われた晩年のヴァルター・ベンヤミンは、ピレネー山脈の奥深くに身を隠しながら逃亡生活を続けていた。しかし、執念深い官憲に所在を悟られた朝、自ら短銃の引鉄を轢いて命を絶った。
彼が生前に残したテクストには、どれも寸断されたままのように終わる向きがある。ゲシュタポに捕まるよりはと、銃声。彼の思索自体もまた、永遠に寸断されたままのテクストだ。それでも、彼の思索が炸裂する、その一瞬の光芒こそが、いまもこの世界の姿を鮮烈に照らしだす。このテクストの下敷きになったのも、ヴァルター・ベンヤミンが遺してくれたテクスト「複製技術時代の芸術」で垣間見られる社会美学論に忠実に倣った。
ジョン・レノン。彼もまたヴァルター・ベンヤミンがスケッチした、寸断されたテクスト「複製芸術時代の芸術」そのものだった。銃声によって寸断されたままのテクストそのものだった。若かりし頃のヴァルター・ベンヤミンの論文に、「暴力批判論」と銘打たれたテクストがある。
想像してごらん。