評伝の精神態様

アントナン アルトー「ヴァン・ゴッホ」を読む

なかおちさと

 評伝は通常どんな精神態様で書かれるのが「普通」とされるのか? 答えはまさに「普通」の精神態様だろう。信頼に値する「普通」の精神態様が求められるのだ。しかし、アントナン・アルトーの「ヴァン・ゴッホ」という立派な評伝は、「普通」の精神態様が描いたものではない。「普通」「健常」と、「異常」の境目は曖昧なんて常套句はここでは問題にもならない。アルトーはヴァン・ゴッホの評伝の形を借りて言う。世界こそが狂っていると。世界に向けて、「狂人」と見なされた側から果敢な反撃に出るのである。

評伝の意味内容から取り掛かるより、まず周りからこのテクストを窺おう。

 

 アントナン・アルトー、二〇世紀の総合芸術の第一人者。詩人にして、前衛演劇に強大なインパクトを与え、アルトーの名前なくして語れる現代芸術の領域は僅かだ。

 一方、そのプロフィールも多難な歴史を刻み込んでいる。精神分裂症という病。晩年のアルトーは詩を刻む営為として、石を叩いていたというエピソードを残している。

 アルトーは芸術作品からプロフィールを引き離すことを、プロフィールから芸術作品を切り離すことを特に嫌ったという。これは1960年代からの構造主義の読みを不可と言い下すに等しい。つまり反構造主義の読み方で彼は、

 彼はヴァン・ゴッホを読んだ。ヴァン・ゴッホを読むにはヴァン・ゴッホのプロフィールと婚姻関係を結べ、それがアルトーのヴァン・ゴッホの読み方であり、その成果がこの評伝「ヴァン・ゴッホ」である。

 

 そのテクストは難解と受け止められるだろうか? 内容としてはそう、難解である。ただし、読み進むのに不思議と苦労はしない。

 テクストに見られるこの相反する容貌は、アルトーがこの評伝を口述筆記で成しえたという事実に支えられていると考える。アルトーは一流の演劇人であり、詩人であった。また詩を書くという行為をして、石を叩いていた。それは音楽の原初の姿である。

 「僕はアルトーを音楽として読んでいるからね 灰野敬二」

 当代一流の音楽家、灰野敬二は私にそう語ったことがある。

 「やがては音楽へと溶解されるだろう ジャック・デリダ」

 ポスト構造主義の第一人者、ジャック・デリダもアルトーのテクストをそう評している

ある意味での読みやすさは、総合芸術の一部たる音楽に長けていたアルトーの一側面によるだろう。敢えて口述筆記、つまり一度音声に変えてみたあとに編まれたというこのテクストの生い立ちは、音、リズムの取り方に細心の注意が働かされたことを物語る。句点、読点、改行、一行空け、すべてにアルトーは確信犯だった。ちなみに訳者の粟津則夫もまたフランス詩の訳業では随一の人物であり、この点でも私たちは恵まれているだろう。

 さて、いよいよ「ヴァン・ゴッホ」について語ろうとするのだが、それはヴァン・ゴッホを語ることにはならない。飽くまでも「アルトーによるヴァン・ゴッホ」として私たちは読もうとする。そこに悲劇がある。

 

 アントナン・アルトー、彼はこの評伝「ヴァン・ゴッホ」で、従来のヴァン・ゴッホ像を転倒させようと、つまり「アルトー自身にとって正しいヴァン・ゴッホ」に書き換えようと図った。しかし、この思惑は一向に成功しない。しかも皮肉なことに成功しないその理由は、アルトー自身も狂人だったため、私たちは安全な場所に彼と彼のテクストを隔離しようと努めるからである。上述の文章には間違いがある。アントナン・アルトーは「アルトー自身にとって」正しいヴァン・ゴッホへと書き換えようとしたのではない。ただ従来のヴァン・ゴッホに関する評伝から、「正しいヴァン・ゴッホ」、もっと普遍的なヴァン・ゴッホ像を描き直そうとしたのである。しかし、このアントナン・アルトーの企ては「私たちの中で」無残な結果に終わる。

 狂人が描いた狂人へのオマージュとして、この「ヴァン・ゴッホ」を読まれる可能性は免れ得ない。アルトーの思惑を妨げる要因は彼がテクストの中で盛んに攻撃する精神病理学についての簡単な知識、常識からだ。それはどんなに皮肉なことだろうか? しかし、アルトー自身にも、アルトー自身にこそ、落ち度がある。

 

「ヴァン・ゴッホ」を通じて読み取れるアルトーの悪意は精神科医だけには向けられていない。たとえば性、セックスに対する異常なまでの嫌悪感を示す叙述。これはアルトー自身の卑俗な事物や精神の総体を嫌う姿勢から出てくるように思えるのだが、反面、

 

一方、ヴァン・ゴッホは、生におけるもっとも卑俗な事物から神話を導き出すことができなければならぬ、と考えていたのだ。 

 私には、この点で、ゴッホはとてつもなく正しかったと思われる (ちくま学芸文庫刊29頁)

 

 という叙述がある。ここでアルトーは無様に「分裂」しているように私には思えてならない。それもテクストの信用性を疑わせるに十分な「分裂」である。他にもたとえばガッシェ医師とゴッホの弟。アルトーはこの従来の評伝では聖人に近い扱いを受けていた人物ふたりをテクストの中で地に落とす。その卑俗さにおいて罪の衣を着させる。しかし上述の文章は消えない。それがまたなるほど至高の真理であるように思われる故にだ。

 しかしこうした「分裂」をアルトーの精神自体が「分裂」と認識しない。そこにこのテクストの特殊性が満ち満ちている。評伝を書くのはどんな精神態様か? 「ヴァン・ゴッホ アントナン・アルトー」の場合、「分裂」を「分裂」と認識し得ない精神態様。アルトー自身の病苦が滲みきったこのヴァン・ゴッホに関する評伝で、私たちは「ヴァン・ゴッホに関する評伝」それ自体を読もうとはしない。せいぜいアルトーによるヴァン・ゴッホの観方くらいであろう。さらに言うならば、私たちはヴァン・ゴッホに魂を託したアルトー自身を読む。おそらくこれが一番安全な読み方なのだ。そして奇妙にも、この読み方はアルトーの芸術鑑賞上の信条に見合う。芸術作品とプロフィールを引き剥がさないというアルトー自身の芸術鑑賞のあり方に沿う。反構造主義的な読み方で私たちは、

 私たちは「ヴァン・ゴッホ アントナン・アルトー」を読む。「ヴァン・ゴッホ アントナン・アルトー」を読むにはアントナン・アルトーのプロフィールと婚姻関係を結べ、それが私たちの「ヴァン・ゴッホ アントナン・アルトー」の読み方であり、さらに皮肉なことに、これがこの評伝の一番安全な読み方なのだ。

 

 アルトーによる精神病理学への悪罵を乗り越えて、それでも私たちはこの著作を安全に読み解こうとする。止まれ、アルトーとともに道を歩もうとするものは、アルトーたることを志願する者である。しかし、アルトーと同じ精神態様に成れるものなどいない。故に「この評伝の正しい読み方」などどこにあるだろうか? それは、いたるところにあり、そして、どこにもない。

 「ヴァン・ゴッホ アントナン・アルトー」

 極めて稀な精神態様で叙述されたこの評伝は不二の美しさが絶妙なバランスで屹立している。狂人が狂人に託した慈愛か? もしくは極めて素朴な、あまりにも純粋な魂に、同等の純粋さを備えた魂で応えた慈愛か? いずれにしても人類最高の慈愛であることに違いはない。

 すべては評伝の精神態様、そのあるがままだ。