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9月11日

9月11日の署名

ふらりと近くのお店に買い物に出かけた。
自宅マンションに戻り、ドアを開けると猫のみふねがにゃあとぼくに抗議する。
ああ、そうか。
買い物に出かけたのはみふねの飲み水を買うためだったのに、手にして帰ったのは週刊朝日だった。
今週9月20日号の表紙はNYのグラウンド・ゼロ地点の写真にキャプション。
「米国はなぜ嫌われるのか?」
思わず手に取り、レジに向かう。
代金を払い、家路に着くとみふねが異議を唱えた。
「ボクの水は?」

慌てて店に引き返す。
今度はしっかりとみふねのための水を買いに出かけるんだ。
陽射しは今日も熱く、しかし空を見つめる。
高く、青い。
薄濁る真夏のそれとは明らかに違う。
9月11日。
無事にヴォルビックを携えて再び家に向かう。
頭上を旅客機が掠めた。
轟音が鳴る。
この閑静な住宅街の午後、ノイズは旅客機が放つその音。
リンク先のサイト「そして朽ち逝けゆりの花」には、ぼく自身のこのサイトの何処にも掲載されていない、しかしぼく自身による詩篇がアップされている。
初めてここに転載させてもらうよ。




From nakao chisato  at 2001 09/14 01:40

石を叩く

言葉を叩く
わたしたちの
てのひらに
乗る
その大きさに
なるまで
言葉を叩く

世界中を汚染された言説が行き交い不能の欺瞞に満ちた自由と民主主義の理念は最高の地位に持ち上げられ第二第三の道は絶たれあらゆる建設的な秩序の復興は道を閉ざされ迷彩色の兵士が自由と民主主義の守り手として英雄に称えられる十字軍として聖地を占領ししかしそのために必要のない憤りがしかし必然として沸騰し急進勢力の一味がボーイングを乗っ取りグローバリズムのシンボルに特攻する第一の殺戮の悪夢を世界は目撃し世界中に理性に根付かない感情論の嵐が吹きすさぶ最中あたらしい第二の殺戮が始まろうと

言葉を叩く
わたしたちの
てのひらに
乗る
その大きさに
なるまで
言葉を叩く

かって
世界こそ
狂っていると
宣言した
狂人

して
演劇人
詩人

いた
パリ
アントナン・アルトー

晩年の
アントナン・アルトーは
詩を書く営為として
石を叩いていたという

石を叩く
わたしたちの
てのひらに
乗る
その大きさに
なるまで
石を叩く

世界中を汚染された言説が行き交い不能の欺瞞に満ちた自由と民主主義の理念は最高の地位に持ち上げられ第二第三の道は絶たれあらゆる建設的な秩序の復興は道を閉ざされ迷彩色の兵士が自由と民主主義の守り手として英雄に称えられる十字軍として聖地を占領ししかしそのために必要のない憤りがしかし必然として沸騰し急進勢力の一味がボーイングを乗っ取りグローバリズムのシンボルに特攻する第一の殺戮の悪夢を世界は目撃し世界中に理性に根付かない感情論の嵐が吹きすさぶ最中あたらしい第二の殺戮が始まろうと/
その只中
根気強く
言葉を叩く
詩人の営為を
真似なさい

わたしたちのてのひらに乗るその大きさになるまでわたしたちのてのひらに見合うそれほどの理性を確実にてのひらに乗せるために根気強く言葉を叩きなさいいまこの世界でただひとつ血塗れない手をわたしにむかって差し出してください叩き鍛え上げられたその言葉とともに

石を叩く
わたしたちの
てのひらに
乗る
その大きさに
なるまで
石を叩く

最良の
答えは
いつも
てのひらに
乗る







二〇歳のレッスン


この詩作がなされたのは、どうやら去年の9月14日、日本時間の午前2時近く。
WTC(世界貿易センター)への旅客機激突から、まだ程ない時期だ。
ぼくはこの詩篇について少しも記憶が無いときに、「そして朽ち逝けゆりの花」に採録されているのを読んで驚いた記憶がある。
それは9月11日ではない。
ぼくは9月11日ではない日にも、9月11日のことを考えることになる。
アフガニスタンでの米軍の空爆による死者は3000人以上にのぼり、今日現在もアフガニスタン国土に駐留する米兵の数は7000人。
さらに予測されるイラク空爆のシナリオについて週刊朝日は告げる。
「イラク攻撃があるとすれば、来年の1、2月、遅くとも4、5月の可能性が高い」
なにをいまさら。
ここ横浜市に隣接する横須賀の米軍は臨戦態勢をとっくに整えているじゃないか。
2001年9月11日から世界が変わった訳ではない。
WTCへのテロの蛮行はその日付以前から準備されていた。
9月11日は特別な日付でありながら、普遍的な意義をも持つ世界時間の一日だ。
昨日の延長の9月11日。
延長線は明日までも伸びる。
識者の誰しもが背景にイスラエル、パレスチナ問題を指摘する。
他者への暴力の誘惑を人間に普遍するものと、俗流心理学と浅薄な仏教思想を混ぜて、だから戦争は起きるとこのサイトのBBSに書いたあなた。
あのときは儀礼で簡単な返答しか書かなかったけれど、近現代の国家、もしくはそれに準ずる排他的な組織的暴力を人間一般、もしくは個人が他者へと振るう暴力といとも簡単に混同するあなたの視点から、最良のこたえは決して生まれないよ。
殺傷行為の始まりは、そのまま戦争行為の始まりを意味するわけではない。
まず人類が戦争をするようになってからまだ間もないと考古学が教える。
続いて近代、現代の様変わりする戦争のあり方は中世のそれとはまるで違うと歴史家が解く。
戦争には変化に富んだ歴史があり、だからこそ「始まり」の発見と、「終わり」という理論値を知恵が教える。
繰り返す。
戦争というものの「始まり」が幾多の学問によって発見されることで、戦争行為の「終わり」という希望的な理論値の存在を想起する知恵を発明できる。
「恒久平和のために」
それはカントによる発明だ。
ぼくはあなた個人を殴るのに、軍隊もテロ組織も動かせない。
仕組みが違うんだ。
仕組みがまるで違うんだ。
質の微細な変化は量における変化を促し、量における変化が質の変化をさらに動かす。
組織的暴力の歴史を人間一般の暴力へと還元する一元論は、本当に一元化された未来しか教えない。
人間がいる限り暴力は絶えないという一元化された未来。
彼はこともなげにこう言っている等しい。
ぼくが彼を殴ることと、アメリカがいまこの時期にイラク・フセイン政権の転覆のために軍事作戦を練り、同時に現にイラクへの空爆を続行していることは、本質において同じだと。
決定的な決定論。
神という観念の変わりに「人間の暴力への誘惑」という言葉を挿げ替えて、世界はこれにより運命付けられていると謳う。
そんな戯言には「運命への挑戦」という言葉を借りよう。

再録。


From nakao chisato at 2001 11/03 06:31

伝導師という人生。

「こんなに散らばってしまった正義 こんなに散らばってしまった正義 それをひとつにしようなんて この形のままで」

灰野敬二、ハーディガ−ディを動かす手をしばし止めて、言葉こそが届くように歌い上げる、東京新宿の外れ、今夜の客席はまばら、

「正義を宇宙に解き放つ詩を歌っているのに、客席は20人だよ、自分のコト、伝道師だとでも思わないとやってゆけないな」

素晴らしい言葉が開かれるとき、受け手の認識は豊かに羽ばたき、あらたな生を生きる、それは歴史の一瞬だ、しかしその実態は伝説の中で語り騙られるものではなくて、さあ、いまチケットを手に会場に向かえば手に入れられる、そんな生活の上の歴史で、

「こんなに散らばってしまった正義 こんなに散らばってしまった正義 それをひとつにしようなんて この形のままで」

アフガン空爆による死者1500人。

終演後
なかおくん、お香立てもうひとつどこにあるか知らないかな?
あ、いまぼくの手の中にあります。




買い物途中、見上げた空は、真夏のそれとは違う青でした。
日々、大気の質が変り行くのを肌が教えます。
微細な変化に世界を読む詩人の粘り強い努力。
言葉を追い続けたその先に、石を叩き始めた詩人。
そういえばアントナン・アルトーの講演として記録されているものに「運命に抗する人間」というテクストがある。

「文化を体現するということは、運命を食らうということであり、認識によって運命を同化吸収することだ。それはまた、本が神を語り、自然や人間や死や運命を語るとき、そんなご託は嘘八百だと見抜くことでもある(「革命のメッセージ アントナン・アルトー 白水社」)」

粘り強い努力を続ける詩人はここで「認識によって運命を同化吸収すること」を誓う。
認識だ。
この粘り強い認識にとっては、9月11日だけが特別に関心の持てる日付ではない。
アフガニスタン空爆の際に起きた「誤爆」の悲劇に、結婚式場への爆撃という事例がある。
結婚式に命中したミサイルは50人もの民間人を殺傷した。
この世界のあるひとにとっては、9月11日よりも重い意義を持つ日付だろう。
毎年、その日付には深く切実な祈りが捧げられるというのに、ぼくの無知はその日付までは記憶できていない。
根気強く言葉を叩く詩人の営為を真似なさい。
ボーイング旅客機ではなく、米軍機が、WTCではなくて、アフガニスタンのとある結婚式場を、祝福の最中に爆撃。
その日付もまた署名された言葉を必要とする。
アフガニスタンへの空爆は逃れられない運命だったのか?
運命への挑戦。
認識により「運命に抗する人間」の必要。

具体的に認識していることを書こう。
有事法制は先の国会では見送られたが、今秋の国会に再び提出される。
提出された法案の署名には自民党、公明党、保守党の三党の国会議員の名前が並ぶ。
この法案の欠陥として指摘されるのは、米軍への後方支援の際に自衛隊が被る危害も、他国からの日本国への戦闘行為として認識される点だ。
戦闘行為と認識された際に、この有事法制は戒厳令発動をはじめあらゆる施策を政府の統治の下に委譲することを個人と自治体に要求する。
この法案が、いまアメリカへイラク空爆への準備と時期が重なるのは決して偶然ではない。
繰り返し。
この法案は自民党、公明党、保守党の署名により提出される。
日本国には「終戦記念日」という日がある。
先の世界大戦の「敗戦の日」だ。
その日付が「敗戦」ではなく「終戦」と謳われているのは、この国が最高法規の憲法で戦争の放棄を謳っているためだ。
日本国憲法の署名は日本国。
いまその日本国の与党三党が新たな戦争へと日本国を導こうと必死。
仕組みはまたも生活者の理解を超えて複雑化する。
それでも、
「認識によって運命を同化吸収すること」
粘り強くある詩人の営為を真似る。

ぼくは、この不出来なテクスト「9月11日の署名」を、本名の中尾千里において寄稿する。
認識はいつもまた不出来である可能性から免れない。
だから、日付を刻み署名する。
新しい日付は新しい認識によって署名される日をいつでも可能性として孕み続けてくれている。



2002年9月11日
中尾千里




lm


\\\\\\\\\\\\\\
ds-0
vc 、bvvぉいk、

2002年9月11日
みふね




↑、猫なりの精一杯の表現だと信じてやるよ、みふね!
 
peace!








補足

執筆中にデーモン&ナオミが主催するボストンの反戦団体musicians4peaceのMLが届きました。
「peaceful tomorrows」
http://www.peacefultomorrows.org/
9月11日テロ事件の犠牲者の遺族による団体の声明文の転送です。
奇しくもこの「9月11日」という日付に関する叙述がありました。
必要と感じますので一部引用転載させていただきます(転載の転載です。全文は「peaceful tomorrows」のサイトにもアップされています)。

"Our families came together out of a shared feeling that our grief was not a cry for war. We need your help to make sure that the anniversary of September 11 is not used to promote more war and violence. Instead, we envision September 11, 2002 as a time for communities around the world to unite in the shared honoring of those who lost their lives and in the exploration of what it will take to create peaceful tomorrows."


続いてmusicins4peaceより会員向け(?)メッセージ。

Thank you to everyone who has joined Musicians for Peace over this last year. Let's all work in whatever ways we can to try and stop the next war.

M4P

http://www.musiciansforpeace.org

尚、本サイトのページ「Library」には、奇しくもかつて「アルトーへのアプローチ」という著作で劇作家としてのアントナン・アルトーを解題したスーザン・ソンタグ(ぼくにとってはアルトー理解の端緒です)が昨日、NYタイムズ紙に発表した文章が転載されています。








特別な感謝を