雑誌「新しい天使」の予告、編

このページでは投稿記事も募集しております。
また、感想や出演交渉等も下記アドレスまでご一報ください。

info@sonimage.ne.jp


6月29日 無力無善寺 高円寺 なかおちさと&水晶の舟にお越しいただいた皆様ありがとうございます。
当日のビデオ映像がいい感じの仕上がりです。関係者各位の承諾を経て何らかの形で発表したく思います。

2005年
1月23日(日)
メロドラマ
(なかおちさと、立島夕子、sachiko、恵美伸子)
ASTRO、SynYo、ANLA COURTIS(from REYNOLS)
蒲田studio80オッタンタ
NEW!!

2月5日(土)
メロドラマ
(なかおちさと、立島夕子、sachiko、みのる他)
魔ゼルな規犬ほか
新宿DOM

NEW!!


12月29日

朗読パフォーマンス(テクストby恋川春町)
12月28日
TUAA
http://www.creato-stage.com/tuaa-top.htm
会場:SUPERDELUXE
http://www.super-deluxe.com/

新しいアートを知る楽しみ、見る楽しみ、
そしてそれを体験する喜び、それは極上の贅沢です。
東京のアートが創りだす力。
2004年、TUAAはアートが平和を創る、を提唱します。
前例が無くて発表できないアート、
表現の空間が見つからないアーティスト、
経済的に成立しにくい表現手段、
まだ新しくて誰も知らない作品、
TUAAは紹介しています。

28日、六本木のSUPER DELUXEでの恋川春町さん、山崎怠雅さんとのコラボレーションを無事終えました。
2004年、すべての公演が終了いたしました。
応援いただいた皆様、本当にありがとうございます。

六本木での公演は初めてです。
この辺りは第二次世界大戦敗戦直後、占領軍相手に幾多の「カフェ」や「クラブ」が生まれた土地であったことを思い出しました。
「東京アンダーワールド ロバート・ホワイティング 角川書店」
↑、この界隈で日本で初めてピザのお店「ニコラスピザ」をOPENさせたニコラ・ザペッティというイタリア系アメリカ人の半生とその周辺を描いたノン・フィクション。
六本木という土地にあるいかがわしさ、いやらしさ。
汚い金で化粧した固有の臭さ。
その始まりの何たるかが緻密かつ大胆に書かれていて面白い読み物ですよ。
時代が変わろうと当夜も会場は多国籍。
亜米利加、英吉利、露西亜、武蔵野国、相模国、千葉県ほか。
会場の規模は大分違いますが、横須賀の小さなクラブ「パンプキン(かぼちゃ屋)」で米兵相手(一部)に演奏したときと似たフィードバックがありました。

23日、中野PlanBでの定例朗読会「溶鉱炉」。
こちらも出演者として、一参加者として、非常に楽しく過ごせました。
朗読というのはいまだ「シーン」と呼べるほどの文化水準にはまったくないという感慨も確固としてありますが、「溶鉱炉」はその<底>からの「抜け出し」という気概を具現化しようと必死です。
切実さのありようが一本、骨があって本当に気持ちがいいです。

さて、年末年始は喘息療養。
すぐにメロドラマ公演の準備、練習です。

2005年1月23日(日)
蒲田studio80(スタジオオッタンタ)
http://studio80.org/
メロドラマ(なかおちさと、立島夕子、sachiko、恵美伸子)、
ASTRO(元CCCCの長谷川洋さんのユニット)、SynYo(大村雄一郎ソロ)、アンラ・コーチス(レイノルズのリーダー 南米アルゼンチン ANLA COURTIS:REYNOLSのギタリスト。ノイジシャン、またコンセプチュアル・アーティストであり、養護学校の美術教師でもある)

↑、お客さんという立場で参加したい程に楽しみな企画(大村雄一郎さん主催)です。







12月22日

90年分のクリスマス


明日、23日は中野のPlanBでの「溶鉱炉」出演。
只今格闘中。
久しぶりに中規模会場でのソロです。
朗読パフォーマンスではありますが。
皆さま、ご覧くださいな。
この公演が終わっても年内に恋川春町さんとの競演。
すぐに来年のメロドラマ、2公演の準備。
翌日、24日はそろそろ病院などが正月休みに入るために通院ツアー。
メリークリスマス。

我が家には幾多もの楽器があります。
ギターは親しみのないひとから見たら「なんで同じようなものがこんなにあるの?」。
試しに数えてみようかと思いましたが、「乞食生活の身でよくもそんなに!」という声が耳元でしますのでやめます。
刑事役の森田健作が嫌味な味を出した感じの男声です。

最近、夢中なのがアルトサックス。
いやいやまったくの初心者。
楽器自体は一年前に手に入れたと思うのですが、音が出ない・・・・・・いや、出せないのか??????? など悩みながら先週まで無用の長物。あるいは一見こじゃれたインテリアとして放置してきました。

ところがさ、マウスピースを「初心者向け」のものに替えてみたのよ、先週。
セルマーのC☆というもの。中古。
はあ「初心者向け」というのは驚くほど初心者に優しいな。
ともかくも「音が出た」。
びっくりだ。

音が出ただけで驚いたのには、それなりの訳があります。
この楽器は古楽器商という名を騙る廃品回収業者がヤフーオークションにて出品したもの。
まずもってボロボロ。

いやいやボロボロは全然構わないんですよ。楽器として機能してくれれば、傷がないものなんてむしろ「ピカピカの辞書」のように使ってないことの証であって、恥ずかしいことこの上ないです。

ただボロボロにも程というものがあって、この「程」「域」スレスレなんだよコイツは!
なにせブランド、及びメーカーが分からない!

謂れとして「アメリカの楽器店がクリスマス商品として店オリジナルのものを販売した、非常にレアなモデル」らしいです。

発売はね、改めて本体をみたら1914年12月て書いてあるよ・・・・・・。
いま、1914年にこの楽器をクリスマス商品として発売したお店それ自体が廃業せずにいたらすっごい奇跡!

一応修理に出したのですが「本気で直そうとするとちょっと想像つかない値段になる」そうです。なので軽いメンテナンスを施しただけ。

ま、そんな訳で先週までこいつは随分場所をとるインテリアだったんですけれど、「初心者向け」のマウスピースを使用した途端に近所中に響き渡る爆音を発したの。警察呼ばれるんじゃないかとぼくったらびくびくしちゃった(しねーよ!)。

改めてサックスについて調べなおしてみると、喘息を克服するためにこの楽器を始めたというエピソードが多く、へええと思いました。
呼吸法のマスターに関して喘息治療とサックスの習得、どちらにも援用できるからだろうなと想像します。

「初心者向け」マウスピースで音は出せたが、さて「いい音」を出せるかといったらまだまだ呼吸法の習得が必要です。
この呼吸法、ぼくは歌などでは意識せずともできているのですが、楽器という媒介を通すとどうもぎこちなくなってしまうんです。
また、歌で習得した呼吸法の「呼吸量」では、サックスを吹くには足らないんです。人生は精進、精進ばかりで参るね。

ただ、なんか1914年のクリスマス商品(つまり初心者向けの造りの悪いもの)たるオールドサックスがヨコハマの僻地で90年分のクリスマスを越えて鳴り渡るのは非常に気持ちがいい。爽快このうえないです。

サンタが我が家にやってきた。
1914年のアメリカから、2004年のヨコハマへ、90年分のクリスマス。

喘息生活のレッスン、再開。





付記

同様に半インテリアと成り下がっていたクラリネット。
サックスを吹き始めたら、自然にクラリネットが上達していました。こちらは皆さんに聴かせるに充分な「いい音」になってきたかなと思う次第です。
ただ、マイク集音が難しい楽器のためプレゼンスが困難なんですよね。
NYのジャズクラブ、いまでも木曜日、ウッディ・アレンはクラリネットを吹いているのかね。
一度、聴きにいきたいんだ。

1914年、アメリカ、ウッディ・アレン監督作品、「ラジオ・デイズ」







12月13日

ひどい風邪で寝込んでおりました。
毎度の書き出しで過去記事かとお思いのあなた! 最新の日記です!

毎度の外出の度に新たな風邪ウィルスを拾ってきます(過去記事かとお思いのあなた! 最新の日記です!)。
ひとり暮らしを始めてから毎年のことです。

家に親など同居人がいる際にはむしろ同居人が「うざく」外出する方が多く、また食事は給仕(おとんorおかん)が用意してくれて腹が減っていなくても定時に出てくるものですから免疫力も自然に人並みになります。

ところがひとり暮らしの場合は我が家も中々に心地よく暮らせる。外出が少なくなる。更に給仕がいないため食事が不精になる。自然、免疫力が低下するのです。
「男おいどん 松本零士」でも風邪ひくおいどんにババァがタマゴ酒用意する場面が繰り返しあるでしょ?

今回は今年初めての「発熱中心」タイプの風邪でした。

発熱タイプは脳細胞が熱によって死滅するのでは? ということが非常に不安。

「人間は38℃を越える熱になると遺書をしたためたくなる」

↑、司馬遼太郎のエッセイ中の名言です(な、オレの日記って読むと必ず得するべ?)。
土佐藩のお遣い役だった坂本「カツオ! ちょっとお遣いお願い!」龍馬を明治維新の功労者として描いて、正に「新しい歴史」を創ったお騒がせな司馬先生。亡くなられたときのメディアの絶賛記事も醒めた目で見ていたぼくですが、この言葉との出会いで爪の先ほど先生を見直したものです。

ぼくが死んだら「葬式無用。弔問供物辞すること。生者は死者のために煩わさるべからず」。

これぞマイ・フェイバリット遺言です。。
「男はつらいよ」のタコ社長役で活躍した太宰久雄さんの遺言です。

生者は死者のために煩わさるべからず

この言葉を死者になることを覚悟したときに奥さんに託したそうです。
あのタコ、タコのくせに実はすっげええええええ偉人だったのかと、当時、新聞記事を読んでトラvsタコの毎度くっだらない原因の喧嘩を思い出しながらボロボロ泣きました。

ああ、いま午前3時。始終伏しているため、妙な時間のお目覚めですが、久しぶりに脳みそくっきりカラリオ。
さて、治ったのかしら?

*mixi連動記事です
(若干ではありますが「練習台」にあたるmixiの方が掲載が早いです。
また今回に限り見送りの日の超過去記事に超重複内容があります。超ご容赦ください。
また↓記事、事実関係に超誤りがあり超訂正超改稿いたしました。
超申し訳ございません)






12月6日
(12月13日 訂正改稿)

こわれてしまった一日

弾き語りソロ公演「黒い日曜日」@裏窓 in 新宿ゴールデン街。
無事終了しました。
次回公演は中野のPlanB「溶鉱炉」での朗読パフォーマンスです。
裏窓弾き語りは今後も継続します。
勿論、鬼も笑う来年の話。

当夜、お越しいただいたすべての皆さま、裏窓の福岡様、競演の寺島暁子さんに感謝いたします。
ぼく自身の弾き語りは「弾ききれなかった」という思いもあり今後も精進かよ・・・・・・精進の約束ばっかしだな・・・・・・ですが、でもね本当に素敵な夜でした。

寺島暁子さんのソロよかったよおおおおおおおおおおお!
なんていうかね、改めて「歌うたい、そのためのギターの音」と思いました。
寺島さんは同じ大学ですが、学部も違い、キャンパスも違い、大学ではすれ違ったことさえなくライブ会場で会うばかりでした。
ギターの刻み。
本当にムスタング? と思う太い音の次に繊細な余韻処理。
そして「うたがある」。
奥深く、奥深くに、耳をそばだてて、聴かなくてはいけないうたがある。
ま、分析はいいんだよ。
あと、一時間くらいねだりたかったです。

同じ学校というのは、山田洋次の映画「学校」コンセプト線上での「学校」のことです。
会場には柴田奈緒さんと、川口雅巳さんが駆けつけてくれました。
益々、学校ぽかったです。
生涯学習。

裏窓の扉には「12月は浅川マキしかかけません」という張り紙がありますが、当夜はねえ・・・・・・。
「セント・ジャームス病院」を少しだけ披露いたしました。
今回のテーマたるハープ(ハーモニカ)吹き語り曲「ドレスデン」というオリジナル曲と触れる歌としてチョイスしました。

M1ドレスデン

ガラスのような
無垢ないたわり
私たちの
食卓へどうぞ

花を飾る前に
温かいスープを
捧げられた肉と
血を噛み締めよう

ここは爆心地
ここが爆心地
ここは爆心地
またひとり
またひとり

ハモニカDm(ナチュラルキー)使用

この曲はワルツ。
3拍子の宿命でこの国の歌謡からワルツがポツポツ消えてゆきます。
ワルツたるワルツを歌おう。
結構な作詞作曲です。

この曲、吹き語りというかハモニカと独唱。
この独唱がいけなかった。
以後の歌とギターのバランスが「構成(この公演には練って臨みます)」をよれよれにしました。
独唱に合う発声のし過ぎでギターがお留守、てかギター不要?

話し変わりますが、最近、お陰さまで公演が多く、左手のギターだこがすごいです。
学校にも行かずにジューダスプリーストを掛けっぱなしにしてわき目も振らずギターを弾いていた中学時代を思い出させるほどの初々しくも硬いギターだこです。

あ、やっぱ話、元に戻します。

浅川マキの「セントジェームズ病院」に加えて、あと2曲カバー曲に挑みました。
自身にとっても新鮮だったのが友部正人さんの「こわれてしまった一日」です。

アルバム「ライオンのいる場所 友部正人 MIDI」所収の「こわれてしまった一日」をカバーしました。

カバーといってもオリジナルを尊重しながらも、ときにその場で思いを紡いだぼくのラインを挿入する、いわば替え歌。

友部正人という完成された詩人の歌、ラインをぼくごときが自分でいじくるなんて神聖不可侵の原則を破ってしまうような発想でした。
いや、他の方の曲ならば、例えば最近よくギター侍とかいうじゃなーい? 
いうじゃなーい? でもオレいまギター侍のことよく分かんないで喩えに出してますから残念! とか、そう、そのような「いじくっていいもの」の対極にあるのが友部正人さんでした。

しっかりと書いた詩がしっかりと詩であるうた。
「歌詞」越えを果たした代表格の代表格。
あと思い出せるのは同時期にすごいビートニク詩をもってうたとした三上寛さん。その少し後に日本近代詩的叙情の継承者として現れた友川かずきさん。
「歌詞越えの歌詩」の歴史はこの三人程度に絞った方がいいと思います。
登場、持続(。また歌詞は歌詞で独自に素晴らしいものがあり、歌詞文化の価値は歌詞と歌詩の違いで、どちらか一方の優性を決定するものではありません)。

弾き語りの依頼があっても弾き語り歌手の楽曲をカバーすることもいまだ禁じ手にしています。
ぼくのようなものがその歴史を無闇に引用して弾き語りのアリバイに使うなんてもってのほかという思いもあります。

ただ「こわれてしまった一日」は、ぼくでも歌えるなと思いました。
出だしのライン「あなたのことをこう呼びましょう 遠くからでも見える人」。いやいや凄いよ。曲、冒頭から「あなたのことをこう呼びましょう」というライン。
いやいや駄目だよ、その方にはその方のお名前があるのでしょうから、勝手に名づけなおすなんて・・・・・・と思うとその呼び名は「遠くからでも見える人」。
なんて慈愛なんだろう。
友部正人はそのひとのいつでも視界に入らずにはいられないチカラと魅力の魔法に惹かれ「遠くからでも見える人」と呼びましょうと心よりの感謝をします。
「遠くからでも見える人」
敬称。

日頃、もしくはステージそのとき、いまこのときの慈愛をこめて「あなたのことをこう呼びましょう」、ぼくだったらその後になんと繋げるだろう?

勇気を持ってこの曲を半カバーしました。

できについては振り返られない程の慈愛の高まりと「夢中」があり、ただ曲中、オリジナルに返って次のライン「ここは窓のない部屋なのに あなたはどこからやって来たの」を会場たる裏窓の全貌を眺めながら歌ってハッとした、その一瞬を忘れることができないです。

裏窓の主たるフロアにはほんの申し訳程度の灯り取りの小さな窓がたったひとつあるだけ(。それでもその裏窓からは灯りが見える)。

「ここは窓のない部屋なのに あなたはどこからやって来たの」

会場たる裏窓まで足を運んで、耳を視線を傾けていただいている、小さな灯り取り窓ひとつにうっすら照らされてそこにいる目の前のすべてのひとへの感謝と、ひとの繋がりの不思議で胸がいっぱいになりました。

胸がいっぱいになった。

符号。
思わぬ符合がもたらすしあわせ。ギターはへたくそだったけれど、当夜の公演、うたは比較的に豊かに歌えたと思う次第。
特にこの半カバーの試みにあってもうたはよかったかもなって思います。
そのことへのプレゼント、ご褒美だったのだと贈り主たるひと、皆さますべてに感謝します。





なかおちさと


「こわれてしまった一日」
(アルバム「ライオンのいる場所 友部正人 (MIDI)」所収)

あなたのことを こう呼びましょう 遠くからでも見える人 夜の夜中にやってきて そうして笑ってぼくを見ている

G D C G G D C G 

ぼくは夜明けを待つ患者です 胸には名札をつけています ここは窓のない部屋なのに あなたはどこからやって来たの

G C
 G C D G  C G

ひっそりとした夜の町は エンジンを切ったオートバイ それとも誰かがふたをあけて 弾くのを待っているピアノ
御徒町のプラットフォームに 一番電車が来る前に 水飲み場という月夜のピアノで ハラハラ夜明けを奏でてよ

どこかの国が打ち上げた グランドピアノの人工衛星 地球の裏側のジャングルで ふたを開けて笑うオルガン
馬小屋でキリストが生まれた夜に 三人の男がやって来た 馬小屋にあったというピアノで 新しい夜明けを奏でるために

時間の止まった世界の中を あなたはカラコロ歩きまわる 夜明けを一時間だけ行きすぎて 夜のままで止まった世界を
世界中の時計を一時間戻し あなたはベッドにもぐりこむ おやすみ こわれてしまった一日と 遠くからでも見える人


弾き語りソロ
12月5日(日)
裏窓「黒い日曜日」
なかおちさと
寺島暁子
(from Doodles)
新宿ゴールデン街「裏窓」

(あ、なぜか下線部にリンク設定がしてあるよ、クリック!)



11月30日

mixi

下のほうにmixiを過大評価した記事があります。
読み直すとちと恥ずかしいです。
その際の記事にもある通り、当ページ「見送りの日」では些細な読書ネタや、病弱日記を禁じ手にしてきた捌け口としての利用価値に言及しています。
↓のような記事はmixiだけに書きますと宣言しながらの転載です。
要するにこのページの更新頻度との歩調合せです。


よ! ご無沙汰!

ご無沙汰だったのには訳があって、毎度の体調不良。
先週土曜日目覚めたら息をするごとにひゅーひゅー音がする。これは気道に細かな痰がびっちしくっついているためなのだよ。別に面白人間の芸じゃないんだよ。
咳も中々止まらない。
慢性気管支炎の典型的な症状と疑い通いつけの病院へ向かう。
貧乏なのに自宅まで無線タクシーを呼ぶ。
身をわきまえろ、この貧乏人が! との非難を多数の人々から浴びせかけられる夢を見て最近眠れないんです。被害妄想っていうんですか、こういうの? 先生、私このままでは気が狂ってしまいそう! こ、これはなんかの病気なんですか? 

「ご先祖の供養をきちんとなさっておられますか? 私には見えます。あなたの背中にご先祖様のお姿が・・・・・・」

あ、で、先祖には悪いが歩くと確実に咳発作に襲われる。
咳発作は本当に辛いもので、最中はゴホゴホゴホゴホこのまま呼吸困難で死んじゃうんじゃないかと思う。大袈裟ではない。

病院は風邪ごときの軽い症状で診察を待つ超軟弱な人々でいっぱい。お前らは家でパブロンでも飲んどけ。家帰ったらまずうがいしろ。ほら、目の前を発作マンが通るぜ、席空けろよ。
診察でぼくの肺の音を聞いた先生は「あ、やばい!」。
常識的に考えて聴診器当てた途端に「やばい!」と口にするのは医師としては失格なのかもしれないが、むしろこの先生のこのフランクなありようや人柄が受けて、風邪ごときの軽い症状でも待合室は満員。ま、お前らは家でパブロンでも飲んで寝とけ。先祖の供養も忘れるなよな。

別室に連れてゆかれてホースの先からなにやら薬剤が噴霧されるマスクをさせられる。この薬剤がなんなのか説明はない。余程の緊急って感じがいかにもしたからといって、説明もないのに素直にマスクしちゃうぼくは将来、恐怖政治下のこの国、政治犯として捕まったらきっと簡単に殺されるなあ。ああ、内緒だけれど新札出たじゃん? 近い内に、ある日突然旧札は一切使えませんと突然発表されて、夏目漱石や新渡戸稲造は紙くずになるよ。そうやって政府のやつらは国民の財産をコントロールしないともうこの国はやってゆけないんだ。これ、内緒だぜ。
薬剤は喘息発作を抑える薬剤。
うむ、気管支炎の処置も喘息の薬剤を使用するのかと感心した。

自宅で咳発作が起こった際に対処できるように何やら大袈裟な器具、簡易空気ボンベというのかな? とこれまた喘息患者の方々が救急措置で使うポンプ型の噴霧器を戴く。
製薬会社はGlaxoSmithKline社とある。
はああああああ、と感心したのはうつ病に処方される新薬SSRIの先駆けの「パキシル」という錠剤を開発した会社として有名かつ身近。
この「パキシル」というのは優れたクスリなれど絶薬の際にもの凄く患者の負担になる。
シャンシャンシャンという擬音で形容される耳鳴り。ピキーンと脳髄を斜め45度上方向から突き刺すような傷み。
これら絶薬時の症状が酷いために医師との相談なしにこのクスリを自力でやめようとするひとが続出。個人的な体験から意見すると自身の判断での断薬行為は、この薬に限ってはそのストレスを考えるととてもお勧めできない。
「きらさなければいい薬」
そんな困った薬なのだよ。

ああ、GlaxoSmithKline。精神科の窓口ではなく、内科の窓口でも君に出会えるとは思わなかった。
昔、あるオリジナル音源に名前をつける際に君の名前を借用した。いまでも平均して一月400〜600回のダウンロードがされている結構なHIT作なんだよ。

あ、お陰で症状の方は快癒に向かっています。




http://www.sonimage.ne.jp/sound/glaxosmithkline.mp3





11月24日

煩悩108

鳥を見た公演の後のアパシー(燃え尽き症候群)は深刻でした。
厳格な唯物論者なのに「占いでも見てもらおうかしら?」。
いや、伊勢佐木町に「占い」「カウンセリング」とふたつの看板を並べているお店があり、「物件として興味がある」。
占いにはカウンセリングに似た効果があることは承知ですが、「別物だろ!」
占いの後にこれらの災厄を逃れるにはこの天然石ムーンストーンを肌身離さず持ち歩いて下さい、でわお会計。

鳥を見たの楽屋で「iPod」の話を唐突に切り出しました。
ぼくはああしたデジモノへの物欲がすごいんですが、実際ポータブル・オーディオを録音以外の目的でポータブルに利用するのは苦手。
この苦手というのは「ああヘッドフォンをしながら街を歩いているときに、車に気づかずに撥ねられたらどうしよう?」というウォークマン登場以来、学校教師が注意指摘する事例そのまんま。
ぼくは普段、考え事をして、もしくはにゃんこに気をとらわれて自動車に撥ねられそうになること半年に一回がアベレージ。
ポータブル・オーディオを利用しながらの歩行はもう本当にビクビク。
3秒に1度はまわりを伺いつつボリューム調整します。
正直、面倒くさいことこのうえないです。
でもデジモノとしてのiPodの魅力はまた別なんだよね。

鳥を見たのメンバーは誰もiPodを持っていませんでした。
ゲスト参加の宮下さんは「あ、ぼく普段は全然音楽とか聴かないの」「あ、でもこの前、お風呂で聴けるCDプレイヤー買ったよ」。
普段、生活の中ではあまり(BGMの役割として)音楽を聴くことがない音楽家は割と多いです。
ぼくもそうかも。
ただ、先の宮下さんの買い物についてよくよく考えると「どうしてもお風呂の中では聴きたくなるの?」
これは宮下さんの音楽生活ではなく、お風呂生活に何らかの秘密があるのではと考えます(不思議さに気づいたのは会話の2日後)。

デジモノ、家電、楽器欲しいものを以下列挙し、煩悩を供養させてください。

ハイビジョン対応テレビ、iPod、Hi-MD、据え置き型DAT、自宅録音用のPC周辺機器、
Epiphone CASINOをもう一本、12弦のエレキギター、HEADRUSH(簡易サンプラー)の2代目、Fender TWIN Reverb、
北の国からDVDボックス、黒澤明DVDボックス、ゴダール「映画史」DVDボックス、いろんなDVDボックス
CS/BSチューナー、auの新しい携帯電話、マニュアル機能つきのデジタルカメラ、PSX、高級サイクロン掃除機
キッチンまわり、洗面所周りそう取替え、腐食しない素材の便器、Dr.中松の永久機関、いろんなDVDボックス

ふ、いまの生活を続けるという条件ではいつになったら全部揃えられるんだ?
あの流行の番組制作費使い込みってやつならなんとかなるのか?
あれは要するに番組作ればいいのですか?
いまから人気お笑い芸人になるってのはどうですか?
ギター侍って、アレ、ぼくのことではないんですか?
どう違うんですか?
どうなんですか?






11月17日

ご挨拶、生業など

15日(月)、鳥を見た with 宮下敬一 Club24横浜公演にお越しいただいた皆さまありがとうございます。
無事(?)、公演終了。
(半絶)賛(ちょっと)否こもごも色々ありますが、どちらかというと耳の痛いダメダシに耳を傾けて邁進していきます。

当日、ラスト曲「God Bless You」を終え、直立不動で「ありがとうございました」とアナウンス。
直立不動だったのはちょっと動くと「胃液だかなんだかがゲル状のものが胸の辺りまで上がってきそうだったから」。

実はまたまた風邪を拾いまして、当日は出発寸前まで寝込んでいました。
発熱と咳。
吐いた痰にはまたまた鮮血。
この痰に混じる鮮血は咳のし過ぎで微細な出血。
その血が混じっているだけ。
でも、さすがに公演直前にそんなものを口からうええええ、ゴホゴホゲホの末にペロリと出した痰に血が混じっていると、「お、オレ歌えるのか?」と心配になります。

あと熱ね。
アイスノンの開発元は小林製薬だったかなあ・・・・・・。
あのさあ、後頭部に敷いて頭を乗せるのが用法だと思うのだけれど、氷嚢のように額も同時に冷やしたいんですよ。
「冷えピタ」という商品がありますが、率直に申すとアレ「ぬるいよ!」。
小林製薬でもどこでも構いませんので、後頭部と額をサンドして頭全体を冷やすアイスノンを開発してください。
ボクシングに使うヘッドギアみたいな形がいいと思うです。

↑のように、公演に関して「今日は風邪で」「いや実は気管支炎が」など、予めの言い訳、エクスキューズがある日というのは逆にどこか後ろめたいものです。
内容に少しでも不満や失敗があったとき、実際の失敗原因に目をつぶって「体調」のせいにしてやしないか? と自問します。

心配していた歌声。
いやあ、話声は咽喉が痛み小さな声になってしまうのに、歌声は春日八郎並に朗々と出ました。
腹式呼吸による発声のメカニズムにとって、咽喉というのは通過点でしかないからなのか、よく分からないのですが、歌声は出るんだねえ。

当夜は鳥を見たの他のメンバーの演奏が息ぴったしで「ご機嫌」。
「ご機嫌」なので得意のぴょんぴょん跳ねながらギターを弾くをぴょんぴょん繰り返していたら、さすが風邪ひき中。
ゲル状のものが胃から逆流して食道をせりあがってくるのを感じました。
ラスト曲「God Bless You」。
シーンでも屈指の美しい曲と自負する曲です。
ゲロとの戦いに負けるわけには行きません。
口から異物を垂れ流す寸前で曲を終了させました。

ステージ終了後、色々な意見をいただきました。
皆さまありがとう。

印象的だったのはご一緒させてもらったAMAZON SALIVAのヒデさん(ex.ウルトラビデ)のお言葉。
「いやあ素晴らしかったですよ。Two Thumbs Upでしたよ!」
このTwo Thumbs Upという英熟語そのもの。
恥ずかしながら初めて知った英熟語ですがなるほど。
これ両手を突き出し親指2本を上に向けるアクションを交えて「Two Thumbs Up」って言うのよ。
ちょっと実際にやってみ! 両手を突き出し親指2本を上に向けるアクションを交えて「Two Thumbs Up」!
親指一本でGoo!!では足りなくて、親指2本なのだ。

AMAZON SALIVAはそう、今回、鳥を見たで一緒にやってくれた宮下さんの演奏をはじめて見聴いたとき以来の「びっくり」+「驚喜」。
もう、びっくり人間を見てびっくりするくらいのびっくり。
デビュー前のKISSをニューヨークのクラブかなんかで観たらこんなんだろうなあって感じのびっくり。
帰り際、またやりましょう、一緒にアンダーグラウンドシーンを盛り上げましょうと頼もしい檄を飛ばしてくれました。
商業ロックのKISSを喩えに出すのは不穏当でしたね。
いずれにせよ楽しかったです。

年末に向けてまだまだ公演が続きます。
12月5日(日)
裏窓弾き語り公演「黒い日曜日」第二夜
今回は共演者をリクエスト、念願叶い、寺島暁子さん(Doodles)。
いや、ホント見ときなさい。
お誘い、お奨めの言葉がどうしても説教口調になります。

ノイローゼになりそうなのが12月23日(木・祝)第五回「溶鉱炉」。
会場がPlanB。
PlanBはできること、やれること無数なれど、いやだからこそ「なにをすればいい?」。
悩むだろうなあ・・・・・・。
ノイローゼきつそうだなあ・・・・・・・。
会場、地震か火事でゴニョゴニョゴニョ・・・・・・。

12月28日(火)TUAA 会場SUPERDELUXE
恋川春町さんのテクストを用いて「なにかをします」。

年明けはとりあえず1月と2月にメロドラマが2公演決定(sachikoさんどちらも参加です)。
裏窓弾き語り公演も継続します。
「溶鉱炉」も健在だと思います。
足らないのはロックバンドとCDなどの「(マテリアル)作品」の予定、あとソニマージュレコーズ独自企画!
(なんだよ↑深刻な課題いっぱいじゃん)

最近、ようやく「ぼくの本業は音楽家(アーティスト)」だと思えるようになりました。
中学卒業の際、担任教師が期待をこめて「音楽家になるんでしょ?」って最後に声を掛けてくれたことを思い出します。
公演がない日は自宅でのPC仕事と家庭教師(
大学受験文系指導、生徒さん募集中です)で生活の糧を得ようと思います。
・・・・・・。
本業、生業、「なに」で決定するもの?
自己申告でいいの?


付記

「鳥を見た」
そのバンド名の由来は円谷プロ「ウルトラQ」シリーズの伝説的な名作です。
昨日、google検索キーワード「鳥を見た」でサーチ!
・・・・・・え?・・・・・・
天国の円谷さん、全世界の特撮マニアの皆さん、本当にごめんなさい。



お手伝いですが、今月末のOVERHANGPARTYの公開LIVE録音のPAをやらさせていただきます。
ご来場お待ち申し上げます。
皆さまお手柔らかに・・・・・・。





11月13日

mixi

ずっとこちらのページの更新を控えていた間もネットで日記を書き続けていました。
株式会社イー・マーキュリーが主催、運営するネット媒体「mixi」。
会員の紹介でしか入会できない媒体です。
いや、だからって資格なんかはなんかはないんですけれどね。

http://mixi.jp/

日記や多彩な自主コミュニティを勝手に運営できる。
日記やコミュニティでの話題(トピック)がスレッド形式。
この点、2ちゃんねるに似ているのですが、長文が書けること。
いや、2ちゃんねるでも長文書けばいいのでしょうけれど、うざがられて読まれないでしょ?
簡潔な一行レスがレッテル貼り、罵倒、煽りを生み、かつそれ以上のものは何も生み出さない2ちゃんねるの名無し言論。
論理一貫した思考との断絶、拒否。
そうしたものが「mixi」では巧いこと克服されているように思います。

ま、そんな高尚な理由で「mixi」に参加したのではなく、この「見送りの日」では書かないことにした、「病弱ネタ(キチガイ関係の方ね)」「ささいな読書ネタ」を、ああ、「mixi」なら書けるかなと思った次第。

以下、「mixi」で書いた日記の一部を転載いたします。
「ささいな読書ネタ」

「沈まぬ太陽」読んでんだ その1〜3

T

昨年のドラマ「白い巨塔」リメイクでまた脚光を浴びた山崎豊子さん。
あまりエンターテイメントの小説は読まないのですが、この方には興味あり。なんつってもごりごりの左翼だべ。
プロレタリア文学を今の時代も面白く書いているひとというイメージで、特に「沈まぬ太陽」が気になって仕方なく、昨夜から本格的に読み始めました。
日航を模した航空会社にて、過去の労組活動のため左遷に次ぐ左遷を強いられる主人公。
発表年は平成11年6月。
うむ、この頃になるともう労働組合は組織率も低くなり、若いひとによると「いつの時代の話って感じ? どうやって思い入れしていいのか分からない」というレビューをアマゾンで見ました。
こういう感想を書く人は「ああ、組合も未組織の零細企業しか勤務したことないんだな」と只今、無職の身(アーティストじゃいけねえのかよ!)ながら、ご推察。
いまや大企業に勤めている方と、零細企業労務者、フリーター、NEETなどとでは「常識」の違い、「認識」の違いで、「会話もできない」くらいに意思疎通の困難が深刻化しているのだと思う。
こんな時代に万人に話が通じる「話」を作り出すのは至難だね。

「沈まぬ太陽」の焦点は日航機123便墜落事故。
新潮文庫刊でいうと第三巻あたり。

ただいまは読み始め第一巻。主人公がどのように経営側の策略によって労組を第一労組、第二労組に分裂させられてゆくか? てなところ。ここの部分を「退屈」と急いではいけないよ。
ここに「現代」があるよ。「いまがなぜこうあるか?」の重大な問題だよ。

大学のゼミ、渡辺治一橋大学教授がこの辺りの問題を日本の企業支配確立の要(の時期の現象)として力説してた。力説いただいて大分理解できた。

「沈まぬ太陽」はこの問題をきちんと提示しているし、ぼくは娯楽小説としても面白く読めるのだけれどなあ。
さきのアマゾンのレビューを思い起こす。「いつの時代の話? どう思い入れしていいか分からない」。
繰り返しになるけれど、社会層によっての「常識」の違い、「認識」の違いで、「会話もできない」くらいに意思疎通の困難。ぼくはアマゾンのレビュワーの方と意思疎通できるかな?
面白いし、思い入れできるぜ、父ちゃんとか組合で頑張ってたもの。
(11月4日)

U

「沈まぬ太陽 山崎豊子 新潮文庫」第二巻 アフリカ編・下を読み終えました。

昨日までの見通しではもっと早いスピードで快調に読破してゆくはずだったのですが、ページをめくる手がしばし止まっちゃったのだよ。
会社の不当人事、組合活動を理由とした左遷などを描いている「アフリカ編」。いや、これがさ、「不当人事」「左遷」を強調する余り赴任先の諸外国が「僻地」扱いになっているのだよ。
最初はパキスタン、その後イラン、で、ケニア。

さて、ここでの「僻地」て会社社会での言葉ではなくて、ストレートに世界地図を日本を中心に置いた上での僻地じゃないのかしら? とか疑問が沸いて来るんだ。
海外赴任を10年近くというのは勿論、会社側の不当労働行為に当たるのだけれど、どうもさ、「僻地」の強調が「日本の常識が通用しない!」「日本標準が通用しない!」てな描写で細くされている嫌いがでてきたの。
で、疑問を持ち始めると更に主人公がスーパーマンであることにも疑問を隠しえない。

「僻地」から「内地」日本への帰国のチャンスは何度か訪れる。しかし、その条件として会社側は「今後、労働組合運動に加担しないこと」を一筆したためるように会社から求められる。主人公スーパーマンは「それでは冷や飯食わされている労組の皆に顔向けできない」と交換条件を断るんだ。

ありえない!

というのはね、実はモデルになっている第一労組は民主的な労組(と自称するのは大抵、日本共産党系)なんだけれど、日本共産党の戦略としては、むしろ会社の中枢に「民主的な人」をどんどん送り込みたいというのが現実の戦略としてあって、組合員も「ああ、あのひとが昇格できたなら、自分も安心して組合活動にまい進できる」とむしろ歓迎するんだよ。これ内緒だぜ! たまたまモデルとなった日航では違ったのかねえ(主人公は共産党員じゃないしね)。でもスーパーマンだから頑張れましたって感じの描写は逆に希望がないような気がするのだけれど、その辺どうよ、相棒?

なああんてことでページをめくる手がのろくなる。「うわ、現地のひとたち、土人扱いか泥棒のどっちかじゃん!」とかあら探し読みになって読書自体がつまらない。
山崎豊子さんは大正13年生まれ。同世代の手塚治虫もこうした「土人表現」を本心では生涯反省してなかったのと同じかなあ? とか本筋に身が入らない。あ、やっと差別についての描写があったよ。でもこれ「アフリカ=暗黒大陸」のときのエピソードじゃんかよ・・・・・・(連載中に批判があったのかもね)。

ところがね、1972年に国外でこの航空会社の飛行機が連続して3機墜落! ひえええええええ、この瞬間から読みの視線が話の「本筋」に引き戻されてくる。追い詰められる航空会社! かなりの資料を駆使したんだろうなあ、それもストーリー・テリングを忘れずに作者さん頑張って人間の「冷や汗」をジリジリ伝えてくれる。ようやくスピード回復。

一連の悶々とした読書時間に感じるのは「これ、翻訳して海外で通用するかしら?」という思い。
特に「僻地」たるパキスタン、イラン、ケニアで出版に耐えるだろうか?

日本の現代文学で純文学作品の海外出版は数あれど、娯楽小説の海外出版は本当に稀。海外の娯楽小説があれ程、大量に邦訳されているのに較べて如何なものか? なんてつまらないこと読書中に考えたくないものよ。

さて、いよいよ新潮文庫刊での第三巻「御巣鷹山編」です。
日航機墜落事故は旅客機がレーダーから消えたことを伝えるテレビジョンのニュース速報(テロップ)をリアルタイムで経験してきました。ただ、その全貌なりを把握するにはぼくの脳みそは小さすぎた頃のこと。

「思い出す あの日々」

(11月5日)

V

「沈まぬ太陽(三)御巣鷹山篇 山崎豊子 新潮文庫」

この第三巻の前半部分は小学校高学年の教科書にしなさい。
いや、なんでもかんでも教育への介入というのは慎重であるべきと常日頃自制しているつもりなのだけれど、アーティストという名の寄生階層の社会の蛆虫の身分のぼくでも時には「憂う」。営利ばかり優先してきた日本社会の成れの果て。この事故の凄惨さを忘れてはダメだ。

まあ、なんだネタばれはやめてくれってリクエストもあるようだし、逐一書きませんが、あのね、この「沈まぬ太陽」という全五巻の大河小説は1,2巻は読まなくていいよ。
いま4巻読んでるけれど、4巻以降も必読というわけではないよ。
但し、この第三巻「御巣鷹山篇」だけは別格!

おさらいとして1,2巻では組合活動で「アカ」のレッテル貼りをされて海外赴任、それも「僻地」をたらい回しにされた主人公。2巻最後で日本にやっと帰ってこられたいきさつが書かれている。

でね、第三巻目に手を伸ばしたさ、ページめくったさ。主人公? 誰だっけ? そんな扱いで日航機123便の御巣鷹山墜落事故を膨大な資料を駆使しながらなおかつ泣き所、びっくり場面満載でドラマチックに伝えてくるんだ。
冒頭からいきなり墜落する航空機の模様の描写。
二巻の終わりからの時間差はなんと11年!

520名が一夜にして命を落としたこの航空事故。墜落現場はもはや大量虐殺があった戦場のようだ。
この墜落事故の凄まじさをもってしては第1、2巻の主人公僻地たらい回しツアーなんてもはや「ああ、いい湯加減ね」とか言っちゃいそうなぬるま湯に思えてきちゃうんだよ。
実際「この事故の犠牲者の皆さんのことを思えば、私の不当人事なんて何ほどのものではない」とかなんとか主人公自身が語っちゃうんだぜ! なあ、1巻、2巻も結構ぶ厚いぜ! オレ必死に読んださ。主人公自身が身に起きた不幸を「何ほどのものでもない」って言われちまったら、おおおおおおおおおおいい、時間返せ!

当時も話題になった墜落途中に乗客が家族に向けて書いた遺書が小説中に登場するのだが、恥ずかしながらオレ声出して泣いたさ。

事故原因に関してはいまだはっきりしていないため、この小説でもその点は謎のまま。そもそもあんな鉄の塊が空を飛べると信じているのが可笑しいわよ、オホホホホホってな具合である。よく言われるように自衛隊が演習でミスして飛行機になんかぶつけたのかもね、分かんないけどさ、あ、コレ凄い秘密みたいだから他のひとに言わないでね? そんな感じ。

事故原因そのものよりも、この小説はこれだけの事故を起こしときながらそのことを傷みとも思わない日航の幹部の非情さを浮き彫りにする。また事故現場の被害者の状態や、被害者家族の痛みを克明に描く。阿鼻叫喚という日常ではまったく使用しない言葉がいま脳裏に蘇ったが、それはもう凄まじいものである。

ま、ネタばれがダメなら一言「沈まぬ太陽」は第三巻を読むだけでも充分おなかいっぱい。尚且つ、第三巻だけは必読である。新潮文庫の100冊。

(11月11日)


↑、読み辛くてごめんなさい。
「mixi」で読むと遥かにすっきりとした書き物に思えるので不思議です。
いずれにしても「論理整合性」をきちんと示すには相応の長文が必要。
「mixi」ではそれが可能。
さらにこうした日記記事への感想を皆さんがランダムに書いてくれる。
そこに罵倒、煽り、中傷は皆無。
参加して10日も経たないのですが300アクセスありました。
こちらのサイトへのアクセスは1日130人(端末)が平均ですので、それに較べるとまだまだ少ないのですがクローズドの運営形態を考えると結構な数だと思います。
ここ数年の言葉や思想たちは「論理整合性」を甚だしく無視しすぎ。
この傾向の顕著な例たる小林よしのりの「戦争論」の台頭から数えてもう5,6年?
アンチ2ちゃんねるの「能書き」「宣言」ではなく「実践」形態が既に現れたこと、一種の節目にすら感じます。
「代わりのもの」は必要から自然な形で、かつ静かに生まれるんだなあ。
「mixi」を利用しながらも、いやいやこのサイトだって論理整合性に気を使ってきたぜと振り返ります。
「まじめに考えないとやばいや」
それはそれでシビアな時代背景でもあるのですけれどね。









11月3日

文化の日

昔、早稲田大学の学園祭は革マル派が取り仕切っていました。
学園祭のパンフレットを入場者全員に強制的に販売するという他大学の学園祭ではありえないことをしていました。
パンフレット収入の一部が革マル派の資金源になっているとの疑いが長くもたれ、ついに90年代中頃、この制度の廃止とともに、大学当局の革マル派追い出しが進行。
このパンフレット強制販売に学生として反対運動していたぼくは大学の学園祭に一歩も足を踏み入れたことがなかったです。
複数人の革マル派に囲まれて「君はどう思っているんだい?」「自己批判せよ」、まあ、さ、そんな形式的なスコラなんて本当にうんざりなのでね。
革マル派「学生」の名誉のために付け加えておくと、革マル派と革マル派「学生」では少し意味なり、感じが違います。
革マル派「学生」の中にはユーモアに富んだ面白いやつも多かったし、バブル時代の残り香がまだキャンパスにあった頃、一種、「真摯」な想いで頑張っていた奴もいました。
「骨」の入り方は組織と個人の境目でいびつで可哀想だったけれどねえ。
革マル派という組織自体への評価(硬直しすぎ-彼らや中核派などは「党」志向です、恫喝多用、革命やくざ)と、ひとりひとりへの評価(はは、その切り返し方は発想として面白いねてな馴れ合いスコラもあったさ)は別だったかな。
いまは昔、母校の学園祭は今日が盛り?

卒業後も母校の文化祭には行ってないです。
今日は鳥を見た公演の曲作り。

↑一日ワンクリック!
11月15日(月)CLUB24 YOKOHAMA

ああ、文化の日。

鳥を見た
11月15日
CLUB24横浜

溶鉱炉
12月23日
PlanB
NEW!!

朗読パフォーマンス(テクストby恋川春町)
12月28日
TUAA
会場:SUPERDELUXE
NEW!!

ほか、裏窓「黒い日曜日」(弾き語り)公演
(あ、なぜか下線部にリンク設定がしてあるよ、クリック!)

2005年
メロドラマ
1月23日
蒲田studioオッタンタ
詳細未定
NEW!!


慢性気管支炎の身で風邪をひきました。
吐き出した痰に血が混じっていたときにはもう((((・・∀∀・・)))) ぷるぷるぷるぷる…
せめて死ぬ前に大阪に住むおかんに会いたくなりました。
あ、翌日病院で抗生物質などいただきまして、大事には至っていません。
咳のしすぎで血管が少し切れただけのようです。

イラクで香田証生さんがアルカイダ系の武装組織に拉致、殺害されました。
私生活でも、この日本でも様々な事件が起こる中、ぼくは初動が遅すぎたようです。
早めに以下の記事を再録すべきだったかなと思います。

事件発覚後、マスコミに囲まれて「
テロには屈しない、自衛隊は撤退しない、テロリストには怒りを覚えるはい以上! とだけ述べてさっさと消えていった小泉首相の後姿はオレ、一生忘れないよ。

再録

運命への挑戦

日々


このところ、なんとも頑固な頭痛に悩んでいる。
ある怯えからくる焦燥感があって、鼓動が乱れている。
ただ、内心にばかり関心を向けずに窓を開け放とう。
陽射しには屈託のかけらもなく、大気は壮観なまでに凶暴でいて、四月、あまりにもまぶしい。

ぼくの内心の怯えというものはひどく感覚的なものだと自覚している。
ある、ニュースがきっかけで震えだした。


2078. 家へ帰ろう なかおちさと@nakao chisato [URL]  2004/04/09 (金) 10:59
サマワの人たちに無事に羊を届けた隊員の皆様、お勤め本当にご苦労様でした。
お帰りなさい。

http://www.euronews.net/popup.php?lien=stream1.euronews.net:8080/ramgen/new/cut/iraq_28902_1.rm?usehostname


イラクでの邦人3名の誘拐事件。

いまは4月12日、日本時間午後1時。
この事件はいまだ解決に至っていない。

9日、午前11時前後、このサイトのBBSへの書き込みには、自分自身どうにも我慢ならないいやらしさがある。
自衛隊の撤退を促す主張と、人質が誘拐犯によって脅されている映像の並列。
ぼくはこの書き込みで「あたかも自分自身が誘拐犯と同調するかのように」もしくはずばり「誘拐犯のように」振舞っている。

('・c_・` )<ダメじゃん.....

四月、季節は錯乱。

「苛酷な現実(これは同語反復である!)としての戦争、事実がもたらす苛酷な教訓としての戦争は純粋存在についての純粋体験として生起する(「全体性と無限 エマニュエル・レヴィナス 国文社」)」

それがために2004年の4月、ぼくの頭痛は陽射しのように威勢よくある。

「文化を体現するということは、運命を食らうということであり、認識によって運命を同化吸収することだ。それはまた、本が神を語り、自然や人間や死や運命を語るとき、そんなご託は嘘八百だと見抜くことでもある(「革命のメッセージ アントナン・アルトー 白水社」)」

誘拐犯たちからの日本政府への要求はイラクからの自衛隊の撤退だった。
引き換えにされたのは日本人3名の生命だ。
この要求に対して小泉純一郎内閣総理大臣の返答は「自衛隊の撤退はありえない」。
福田官房長官も「わが国には撤退する理由がありません」と発言。
こうした政府の判断をメディアは我先にと称揚した。

「テロに屈しないとする政府の毅然とした姿勢は評価に値する」

とまれ、この判断の評価が下されるのはこの事件が無事に解決したそのときだろうに。

ダッカ事件で赤軍派の服役囚を釈放した日本政府の判断には世界各国から非難を浴びた。
今回の政府の早期の判断はこうした非難への反省が活かされている。
今日の国際政治では「テロリストの要求に屈しない」というのが大前提だ。
こうした掛け声が事件発覚以来メディアから大量にあふれ出した。

この「テロリストの要求に屈しない」という判断は目に見える成果たるものをいま現在なにひとつ実らせていないという剥き出しの現実。
「自衛隊の撤退はありえない」とすることによって、テロリストとの交渉に、フレキシブル、柔軟な対応ができず、事件の解決は一向に見えていないというのが、4日後、きょう今現在のありのまま。

本が神を語り、自然や人間や死や運命を語るとき、そんなご託は嘘八百だと見抜くこと。

さて、運命への挑戦。

反テロという姿勢の正当性はいつの時代も自明なものだと信じたい。
ただ、反テロリズムを訴える言明がいつの時代も正当とは必ずしも限らない。
今日の世界で反テロリズムの急先鋒がイラク情勢を泥沼化するだけのブッシュ政権であるということを顧みる。
今日の反テロリズムは、もはや悪しき「反テロリズム原理主義」に堕落してしまったのだと感じないわけにはいかない。

「テロとの戦いは自由民主主義国家の宿命であり、運命である」

イラクで今現在アメリカ政府がこだわっているのは、主権移譲後のイラク政府をアメリカの傀儡政権、もしくは少なくとも親米的な政権にすること、その一点に過ぎない。
ブッシュ政権が口にする「テロとの戦い」というものの実際の容態と、ご託の自明性はなんて汚らわしいのだろう。
ブッシュ政権の施策のすべてがむしろテロを育てている現状において、彼らの「反テロリズム原理主義」は反テロリズムとしてはまったく機能していないのが現実なのだ。
堕落。

この「運命」の担い手を請け負う日本政府。
運命は「自明と信じられている<その場>」限りにおいて運命、宿命として機能する。
この疑わしい運命を自明なものとして理解しろとテロリストに「甘える」ことを恥じない日本政府。
政府は今回の事件での自らの無能ぶりがどうして根本的なものかということを一向に自覚できない。
自らが信奉する運命の運命性を疑う知性がない。
「自衛隊は人道復興支援のためにイラクに派遣しています」
人道復興支援、その実態は効率の悪い水汲みに過ぎない。
それでも「自衛隊の撤退はありえない」。
理由は「テロリストに屈してはならない」から。
固着した観念、予めの回答、以後の思考停止。
反テロリズムという名の「反テロリズム原理主義」は今日の社会の妖怪だ。

「文化を体現するということは、運命を食らうということであり、認識によって運命を同化吸収することだ。それはまた、本が神を語り、自然や人間や死や運命を語るとき、そんなご託は嘘八百だと見抜くことでもある(「革命のメッセージ アントナン・アルトー 白水社」)」

「テロリストに屈しないという政府の早期の判断は評価に値します」

事件解決への道の手詰まりといういま現在。

さきに引いたレヴィナスの言葉にはひとの聡明さを揺り起こそうとする前段がある。
以下。

「戦争においては、現実を包み隠していた言葉やイメージが現実によって引き裂かれ、赤裸で苛酷なこの現実がじかにつきつけられる(「全体性と無限 エマニュエル・レヴィナス 国文社」)


今日、現実を包み隠そうとブッシュ政権が嘯く「テロとの戦い」という言葉やイメージが、現実のイラクでの「ベトナム化」によって引き裂かれているありさまをよく見よう。
そしてレヴィナスは続ける。

「苛酷な現実(これは同語反復である!)としての戦争、事実がもたらす苛酷な教訓としての戦争は純粋存在についての純粋体験として生起する。(「全体性と無限 エマニュエル・レヴィナス 国文社」)」


「テロリストに屈しないという政府の早期の判断は評価に値します」

なにも解決し得ないという苛酷な現実(これは同語反復である!)があるだけの現在において「評価」に満足げなこの国の政治家、テレビ番組司会者、批評家、新聞論説委員たち。
彼らが一様に拠る「反テロリズム原理主義」の、反テロリズムとしての機能の堕落。
運命の運命性における浅薄。

本が神を語り、自然や人間や死や運命を語るとき、そんなご託は嘘八百だと見抜くこと。

運命への挑戦。

賭けられているものは常にわれら人間の生命。

ぼくはテロとの戦い自体を疑うに至った。

/ベトナム化する(テロとの戦い、)イラク情勢/

四月の凶暴。





10月30日

毎度の風邪ひき。
病院はこどもたちでいっぱい。
こどもは風邪の子。

24日(日)、裏窓@新宿ゴールデン街での弾き語り公演が終了しました。
足を運んでいただいた方、素敵だったでしょ?
好評なのでシリーズとしてやってゆきます。
しばらくは裏窓のみです。
歌が聴きたい方も、アグレッシブなギターが好きな方も遊びにいらしてください。
多分、また近い日にあの部屋で会いましょう。

弾き語りは思ったよりも「やれること」「やりたいこと」「やるべきこと」いっぱい見えますね。
いや、まじ求道的にどんどん進んでゆくから観ておいた方がいいですよ。
当日の記録を一部アップします。
ドロップ、ツバサ
↑クリック!

更新や連絡、及びメール返信たまりまくっていてごめんなさい。
書きたいことは色々あります。
体力復活まで待っていてくださいな。

ああ、ただ眠れなかったので少しだけ書きますね。

いま新宿ゴールデン街は地域そろって「街づくり」をしています。
若いひとたちがこの街にまた集まりだしたからのようです。

かつて時代そのものが文化だった頃があったようです。
ぼくが生まれる前、もしくは記憶もないほど幼い頃のこと。
ゴールデン街は「文化」も「時代」も両方とも体現してたのではと、いま若いひとは<いま>を貧弱に想いつつこの街に惹かれてやってきました。
今回の公演ではギター2本、シンバル、ミキサーなどの機材類を裏窓のスペースに置いておくことができず、近隣の「汀」というお店に預けておきました。
「汀」は歌手の渚ようこさんのお店。
前日は渚ようこさん自身のショーがありました。
店内はようこさんが愛する映画アイテム、日活ロマンや藤田敏八監督のものなどのポスターが貼られています。
ふむ。
肝心の「裏窓」。
こちらの名前の由来は浅川マキの名曲「裏窓」。
店内はマキさんの色、黒一色で統一されています。

渚ようこさんも裏窓のお店長さんもぼくも大きく括ると同世代です。

さて。

懐古主義に陥らない。

このテーゼは題目ではなくて実践課題。
文化というのはゼロのところから魔術のように1が生まれるのではなく、1+1+1+、ときに掛け算。
裏窓様のご好意でしばらくこの街で定期的に演奏させていただけることになりました。
一回一回の公演に課題設定。
さて弾き語りはどこへゆくだろう?
1+1+1+、その先の未知数目指して頑張ります。
ぼくもまた「街づくり」の一員であり、一因です。
観ないと損。
うん、観ないと損ですよ。
変わりゆくさま。







10月23日

自首

昨日、24日の裏窓公演のために弦などを買出しに出かけた。
横浜駅周辺の雑踏で人々とすれ違いながらも脳みそは公演のことばかり。
にゃんこのトイレ砂なども買ったため、買い物袋が結構重い。
情けない話だけれど腰が痛くなってきた。

ぼくの両親はふたりとも腰が弱く、父親などは何度も手術をしている。
「あなたも気をつけなさいね」
母親のこうした警告は一種の催眠術的な暗示効果があって、少しでも腰が重くなると大事を心配してしまう。
どこかで休もうにも今度は出走馬体重というか、お茶所で休んで甘いものを所望してほらまたおデブな姿を曝すのかよ。
そんなことを考える。

横浜駅相鉄口に交番がある。
以前、駅ビルで倒れてしまったときに保護してもらったことがある。
休んでいるうちにキャバクラスカウトのお兄さんが何人も逮捕(? 逮捕じゃないよな。ただ通報されるんだよ。)。
スカウトのお兄さんは肉親などが来ないと帰してもらえない。
年老いたお婆さんがやってきた。
まあ、当たり前だけれど大動揺。
警官が言う。
「そんな、心配することないんですよ。息子さんは生活のために仕方なくやっているんですから立派です」
警察なんかなくなってしまえ! オレはアナーキスト!
なんだけれど、病気で倒れて保護してもらったこと数回。
その度に親切にしてもらうとどうも悪い気がしない。

腰が痛かった。
裏窓公演のことで頭がいっぱいなうえに腰が痛い。
目の前に交番があった。
なーんにも悪いことはしていないのに自首したくなった。
「すいません。このままだとぼくはいつかきっと大変なご迷惑をおかけしそうです。逮捕してください」
自首したくなった。

この記事を書いている途中、新潟で大きな地震。
横浜も揺れる揺れる。
すいません。
さっき「ああ、地震とか来て公演中止になればいいのに・・・・・・」2学期を前に学校崩壊を願う小学生のようなことを考えていました。
ぼくのせいです。
ごめんなさい。
やはり自首するべきでした。

裏窓。
皆さんがぼくのうたを気に入ってくれると嬉しいです。
皆さんがぼくのギターを気に入ってくれると嬉しいです。
生涯初めての弾き語り公演。
「落ち着いて行動してください」
NHKのアナウンサーが警句を発している。






10月17日

ナンシー関のテレビ消滅時間


皆さんお久しぶりだ。
ナンシー関です。
「え、あんた食いすぎで死んだんじゃないの?」
疑問、もっともで私は死んだ。
ところが昨日、こっちの、あ、いやそちらから見ればあっちの世界で初めて消しゴムを発見したのである。
発見したときの喜びようといったら私の生涯を振り返っても例えようがない。
私はその貴重な消しゴムをまじまじと見つめている内に「彫りてえ・・・・・・」。
この消しゴムにいまの気分をありったけ彫ってやりたいと思ったのである。

というのもそっちで、あ、いやこっちからみるとそっちだから、そっちではこっちでのことであるが、15日に「3年B組金八先生」の第7シリーズの初回2時間スペシャルが放送された。
見終わった私は拾ったばかりの消しゴムを手にしかと握り締めて呟いていた。

「ああ、金八彫りてえ・・・・・・」

いや、今度の金八は凄いわ。
まず生徒の誰も金八の話しを聞かないのである。
所謂、学級崩壊というやつなんだろう、さすが足立区の公立中学校。
他の地域なら「そんな馬鹿な」「やり過ぎ」「ありえない」という声が当然聞こえる。
しかし私はそんな思いは微塵も感じない。
「足立区の公立中学校」
そこは多分、ニューヨークのサウスブロンクスみたいな所じゃなかろうか?
長年、金八シリーズを見てきた私としては行ったこともない「足立区の公立中学校」は金八というフィルターを通してしか体験したことがない。
実はコレってアメリカ映画というフィルターを通してしか知りえない「ニューヨークのサウスブロンクス」と私にはまったく同列であり、そこでは暴力で街が荒み、しかしそれを嘆く坊主だか教会主だかが立派に更正させてゆくメタ物語が繰り広げられるメタ空間なのである。
またどういう訳かあれほど必死の思いで更正させた地域が2年もすると更に複雑かつ凶暴な街に成り果てている点でも両者は一致する。
カルマの真髄よね、メタカルマっての?
私はこっち、あ、そっちからみてあっちに来てから少し賢くなった。

あ、で、今回の金八。
まだ初回2時間だけだが、何と前々回兼末健次郎編、前回上戸彩編を力技で凌駕せしめてしまった。
いやいや、驚いたね。
脚本の小山内美枝子さんっていったら、本来なら私より早くこっちに来てないと納得できない年齢でしょ?
しかーし! 初回からほとばしるバイオレンス&カオスの世界!
耕作の目の前で友人が飛び降り自殺、3Bの生徒は家に帰ると母親らしき女に理由なきDV、もうその殴る蹴る容赦ない。
近くの高校ではマリファナパーティー、美少女の転校生登場、しかし知的障害児。
なにより3Bの生徒は教室での私語は勿論、携帯電話使用、ぶらぶらと席や通路を行ったりきたり歩き回るetc.が標準仕様。
いったいどうなんだい↑の内容が2時間ノンストップてんこ盛りで止めなく視聴者を鬱にさせる週末の夜っていうのはよ?

金八の無力具合や本人の諦観ときたら、これがあの金八かと疑ってしまうわ。
だめじゃん。
使えないじゃん今回の金八。
もう引退しちまえよ。
無理なら仮病使って保健室にでも籠もってろよ!

不甲斐ない金八を心のうちで散々罵倒したもんだ。
しかし罵倒しながら気づいた。
「あら、してやられた。これは小山内自身による金八批判だ」

思えば金八の新シリーズでは毎回毎回の隠れたテーマが「前シリーズまでの金八批判」ではなかったろうか?
これが水戸黄門だったらどうだろう?
新らしい黄門様役が前の黄門様の「イメージ」に新味を加える小手先の挑戦はあれ、水戸黄門のアイデンティティ自体を批判することはないのである。
「この紋所が目に入らぬか!」
・・・・・・。
「そうか、知らぬか・・・・・・」
・・・・・・・。
「えっと、マジにこのマーク見たことない?」
・・・・・・。
「じゃ、仕方ないよね。道中気をつけてくださいね。でわ」
・・・・・・・。
「スケ、カク、盛者必衰って言葉は知ってるかね?」
・・・・・・。
こんな水戸黄門はまずない。

しかし金八の場合、新シリーズの度にそれまでの金八らしさが通用しなくなる。
2時間、初回スペシャルの金八の情けなさったらもう前回シリーズでの生徒との信頼の絆のへったくれもなにもない。

実はこのスペシャル、私は畏れ多くも、この前こっちに、あいや、そっちから見るとあっちに逝った深作欣二監督と一緒に見た。
「あああ、そうか、オレ、バトルロワイヤルなんかじゃなくて、同じ感じで金八撮ればよかったかもなあ・・・・・・」
ああ、分かります分かります、教師がとことん無力。
生徒はアナーキーの本義もしらずにアナーキー。
DV、クスリ、差別、権威的体質との抗争。
左翼といえど色々あり小山内、深作のタッグはそちらでは実現しなかったが、こっちでは深作監督はもう乗る気である。
小山内さん待ってます。
深作版の金八役も勿論、武田鉄矢。
しかし役柄より実生活の人間武田鉄矢に限りなく近い俗物だそうだ。
他にも大森巡査が不良に向けて容赦なくマグナム威嚇射撃をするシーンなど見所満載である。

あ、そうそ。
こっちきて初めて消しゴム彫りました。


シンメトリーなんで楽だったな。




ナンシー関のテレビ消滅時間




10月7日

日々雑感

へへ、ネタがない。
まあ、そうはいってもイスラエルはガザ侵攻を即刻中止すべきだ。
我が家の照明はほとんど白熱灯。
今夏はまめに消すことを心がけて頑張ったら電気代が1万円も下がった。
びっくり。
へへ、うんネタはねえよ。

村上春樹の新作「アフターダーク」を読んだ。
小説にしては散文とは言えない叙述の仕方。
脚本のようなシンプルかつ最小限の記述。
それでも面白く読みました。
読みながら回想したのは「あれ、アントニオ・タブッキの小説に似ている」。
いや、この似ているのポイントがどこなのか未だはっきりと分からないのですが、多分、ひとの生はほんのささやかな出来事の連鎖によって毎日毎日少しずつ変化し、ドラマはドラマティックとは限らない。
でもささやかな変化こそやがてドラマを呼び込む。
そんな感じの人生観でしてアントニオ・タブッキの「供述によるとペレイラは・・・・・・ 白水社」を思い出しました。
不思議なもので「供述によるとペレイラは・・・・・・ アントニオ・タブッキ 白水社」の存在を思い出した途端、「おお、あの作品こそぼくが一番愛着する作品かもしれない!」と鼻の穴を大きくして興奮しだしました。
白水社Uブックスという新書版で手に入ります。

ああ、まじネタがないのですが、↑ドラマの話しているんでメロドラマの2005年2月新宿DOM公演の告知です。
昨日、高円寺ペンギンハウスの客席でかねてから参加をお願いしようと思っていたOVERHANG PARTYのsachikoさんに、2月公演の出演を依頼。
イエーイOK!
2月公演はね。
打ち上げの席でつるのこ(川口雅巳、恵美伸子)の恵美さんにもオファー。
イエーイOK!
2月公演はね。
恵美さんの昨夜のドラム、キックの乱れ打ち、そしてそのキックがすべていい音。
やはり理想のドラマーです。
つるのこにぼくは入れてくれないみたいです。

メロドラマはメンバー不定、当面はぼく、立島夕子以外は公演会場や公演内容によってメンバーを募る形にします。

高円寺ペンギンハウスでの打ち上げの後は新宿ゴールデン街の「裏窓」に遊びに行きました。
どなたさまも24日(日)の弾き語り公演よろしくお願いします。
「また弾き語りをやってください!」
「時々でもなかおさんの弾き語りを聴かないと生きている意味や目的が分からなくて私、この先どうしたらいいんですか?」
「責任とって弾き語りこれからも続けてくれないと困ります」
「すみませんトイレはどこですか?」
などといった反響をいただけるように頑張りたい所存。
目下の困りごとは「クラシックギターがない」。
ガット弦、ナイロン弦を張ったギターはすべてクラシックギターだと思っていませんか?
違いますよ、皆さん!
ガットギターはあるのですが只今クラシックギターがない!
ぼく所有の唯一のクラシックギターは灰野さんが使ってます。
返してもらえばいいんですけれどね。
やはりぼくの方から取りに行くんですよね?
東京都のはずれの方まで?
灰野さんご自身が我が家に返しに届けてくれるってことはないのかしらね?
「ピンポーン! はい、ギターもってきたよ〜!」
・・・・・・。

御茶ノ水の楽器店を回りましたが、本格的なクラシックギターはやはり高価ですね。

弾き語りは生音でと考えていましたが、昨夜の視察でミキサーやマイクを使うことにしました。
音が吸収されやすいかもしれないこと。
最近、秋の長雨で大気が湿気ていることを考えるとマイクの使用は避けがたいように思えます。

昨夜の「裏窓」には同じくゴールデン街で「汀」というお店を出している、歌手の渚ようこさんがいらっしゃいました。
元ザ・サーフコースターズの八木麻紀のご友人。
目配り、気配り、きっぷのよさ。
関心いたしました。
小学校の同級生のことよちゃんに似ていました。

11月15日には横浜CLUB24で鳥を見た with 宮下敬一(MANDOG)
まだ詳細発表できませんが12月にはソロ公演(たまにはコラボレーションでもしようかな?)。

今年の公演は無善寺の水晶の舟とのセッション以外は皆「取り組み課題」でした。
一ヶ月に一回の公演ペースは決して多い方ではないのですが、毎回が「発明」を意識しての舞台。
正直、毎回のノイローゼは本当にきつかったですが、結果は地味ながら、挑戦姿勢自体は今後の飛躍につなげられる予感です。
正直、2004年がこんなに充実した年になるとは思っていませんでした。
あとは年賀状書いて、紅白観ながら年明けを待つばかりです。
2005年もよろしくお願いいたします。










9月21日

blogさせろや

地下へ続くたくさんの数のエスカレータがあり、しかしそれぞれに帰る先が決まっているように、乗るべきエスカレータもそれぞれ決まっています。
帰り道、ぼくは多くの旧友と道別れました。
皆、上層の綺麗なエスカレータに乗ってゆきます。
ぼくは深層のエスカレータに乗ってゆきます。
エスカレータの降り着く先には地下鉄が到着しました。

ぼくと同じ地下鉄に乗る人たちに特に共通項はないのでした。
惚けて口を開けたままの痴人。
今日の買い物は大量の果物、ひとつひとつ手にとって見る婦人。
文庫本を読みふけるサラリーマンの背広はよれよれ。
「老人と海」。
背広姿の初老の男が読む本の背表紙の書名。
「老人と海」。
車内でぼくはその書名を声に出して呟きました。

そんな夢から目覚めてしばし、ぼくは「実直さ」というタームについて考え



ま、こんな文章はいまオサレさんがはまっているblogとかいうやつに似合いだなと、「老人と海」の下のアンダーバーをクリックすると説明が出るんだろ?
このサイトにはそんな機能ないぜ。
で、どうやったら始められるのかい、あれは? お金かかるの? クレカとか必要なの?




10月24日(日)
新宿ゴールデン街「裏窓」
なかおちさと
(初の弾き語りLive)

11月15日(月)
CLUB24横浜
鳥を見たwith宮下敬一
(調整中)
gaji ほか

2005年2月5日(土)
新宿DOM
メロドラマ
魔ゼルな規犬 ほか


2004年内、LaLa一回、ソロ複数回追加あるかもしれません。







9月20日

中尾家のにほい

先ほど、信じられない光景を目撃して卒倒しそうになった。
まだ皆さんにはお目に入れてない愛器にフェンダーのムスタングというギターがある。
確か1977年製だっただろうか。
ムスタングの後期のものはマイクがあまりよくなく、こいつに1973年製と1980年製のフェンダー・ストラトキャスターのマイクを乗せ換えて、ずいぶんゴージャスなギター。
はあ、しかしそのムスタングのそばに茶褐色で異臭を放つ小石大のふんころりんを見つけてしまった。
犯人はこのこ↓。

ライカ♀5ヶ月
(動きが早いのでいい写真が撮れない。ホントは美人さん)


みふねはいま彼女宅で暮らしていて、8月より我が家に新しい仲間がやってきた。
ついでにこのこ↓。

夏目(なつめ)♂5ヶ月

夏目とライカは兄妹。
ともに野良にゃんだったせいでそれぞれに固有の癖がある。

ライカはトイレという観念が中々馴染まない。
風呂場、玄関、ギタースタンドなどどういう訳か家の「端っこ」にふんころりんを置いてゆく。
大らかな気持ちで「ふ」とため息漏らすだけで済む場合もあるけれど、ぼくだって人間、拭えない糞臭に怒り心頭する場合もあり、精神衛生上よろしくない。
対抗手段はまず糞臭を最大限取り除くこと。
そしてふんころりんするには無理がある「地形」をつくってあげる事。
ふんころりんは地形が安定してないと、安心して出せないのは人間も猫も同じみたいよ。

夏目の方は家の中の野良である。
トイレは几帳面なほど上手なのだけれど、野良猫の習性はまだまだ抜けていない。
悪食だ。
菓子パンなどを後片付けせずに居ると食べる。
台所で料理に使った野菜などを漁る。
あまりきつく叱るとこれまた野良の習性で人間が怖くなるみたいで気を使う。
我が家に来て約一ヶ月。
抱っこさせてくれるようになったのはほんの1週間前かな?

猫を複数匹飼う。
兄妹の場合、毛並みが似ていて夜、彼らがじゃれている光景は月明かりにとてつもなく美しい。
ただ、その分、残念なのは対人間関係よりも対猫関係を大事にするために、そう、たとえば自身の名前に鈍感なのだ。
ああ、ライカはカメラのLEICAの気品。
夏目は「吾輩は猫である」から夏目。
ふ、なんて気の利いたセンスだろう!
でもハイブロウなセンスはこいつらには無用の長物みたい。
その点、みふねは対ぼくとの関係が濃かったので、あっという間に自分の名前を身に着けた。

ライカは人間が大好き。
嬉しくなると鼻水が大量に出るという特異体質みたいでぐしゅぐしゅになった鼻を僕の顔にベロンベロン擦り付ける。
すっごい複雑な気持ち。
夏目はまだ野良の警戒心が抜けないけれど、ぼくは分かっている。
夏目こそ一番の寂しがり屋さんで、すべて生き物の気配に注意深い関心を持っているんだ。
さすが夏目先生とぼくは畏敬の念を抱く。











9月15日

リオのダンディ

新宿の外盤ショップが健在だった頃は南米の気になるアーティストを見つけると即GET。
ただ「気になる」の基準が通例の買い物と違うのは前情報なりがお店の方が手書きで作ったキャプションだけ。
3枚に1枚は駄盤を掴ませられる。

それでも南米音楽の魅力は尽きない。
トラッドやダブ、レゲエに関しては語りつくされているだろうから、このサイトで紹介する必然性はあまり感じない。
ロック、ポップの豊穣をお伝えしたいよ。


「REVOLVER (1975) OU NAO (1973) walter franco (eastwest)」


ブラジルのアーティスト、walter francoの1975年作の「REVOLVER」と1973年の「OU NAO」の2in1。
紹介しておいてなんだけれど、このアーティストの出自はまったく分かんない。
また2in1の宿命で比較的にエレクトリック全快の1975年作品と、アコースティック楽器が軸の1973年作品が混在していて、このアーティストの正体はもっと分かりにくい。
ただ言えることはこのアーティストに限らず南米のロック、ポップミュージシャンはうた、声をサウンドの中心に置く。
ビーフハートかザッパか? てな前衛的なアレンジでもうた、もしくは歌い手と、その声をサウンドの軸とする。
またこのwalter francoについて顕著なのは前衛的というかハチャメチャなアレンジなのに妙に都会っ子のオサレさんさんなんだよ。
都会といってもNY、TOKYOのそれではなくリオデジャネイロのそれなのだけれどね。
一音一音聴きこむとその変態具合を確認できるのだけれど、このひとのダンディな雰囲気のおかげで自然に聴ける。
1973〜75年といえばシティ・ミュージックの台頭の時代ではないか!
うん、当然に異論はあるだろうけれどぼくはこうした音楽こそシティ・ミュージックなのだと訴えたい。
一般にアメリカのシンガーソングライターのシティミュージックは例外はあれ、シティの断面の捉え方が一面的、もしくは音楽で表すべきところを歌詞に頼りすぎていたように思う。
シティ・ミュージックはミュージックそのものに「シティ」が現れなければ嘘だろ。
こんな世の中だ。
現れたシティはエキセントリックでないと嘘だろう。
一日中、都市の中に居たら発狂しそうにならないかい?
正にここでのwaltaer francoは心配になるほどに危険、一歩手前。
この1973年と1975年の記録の中でヴォーカリストは七色の声を駆使する。
当然だ。
都市の本当の姿は正に多声的なんだ。











9月13日

音楽の未来

最近、「ちさプにとって最初に聴いたロックって何なの?」と尋ねられました。
しばらくぼうっと考えて「ああ、小学校の頃にリアルでヒットしていたクラッシュのロンドンコーリング!」

↑、こんな趣味でよく前衛ロックにまでたどり着けたよなあ・・・・・・と思います。
ま、いまでも大好きだけどよ、クラッシュ・・・・・・・。

ぼくは小学1年生の頃に6歳年長の兄から洋楽を叩き込まれました。
この時期に洋楽に接したのが「いい方向」「悪い方向」いずれも決定してしまったなと、最近思います。

灰野敬二、川口雅巳などのうたを聴いていると、うたとうたを補完するバックトラックの在り様、楽器との切り結び方が洋楽のそれとはまったく違うのだと気づかされるものです。
「奥深い」という言葉がありますが、その肝心の「奥」自体の定義がまるで違うのだと。

灰野さんにしても川口さんにしても口を開き、発声したその咽喉の一寸奥がすでに闇。
開いた口、震える咽喉にすでに闇が覗いている。
ところが洋楽の方はバックトラックで奥行きを作ることに懸命過ぎるように感じます。
「ロンドンコーリング」の成功はあのベースラインとカッティング・ギターの怖さでしょ?
ぼくが器楽偏重なのは、幼少からの洋楽漬けが災いしたのだと、しかしいい歌遺したいのによう!

どちらがいいとか悪いとかという問題ではなく、文化の違いなのでしょう。
ただ、幼少の頃から洋楽に浸ってきたせいで、うたとその補完の在り様で、ぼくは限りなく悪しき洋風なのだとわが身を怨みます。
ただし、戦前ブルースマンや、ティム・バックリー、ニック・ドレイク、最良のボブ・ディランほかほか、弾き語り文化になるとこの定義は崩れるんだよな。

さてさて、10月下旬の土曜日、新宿ゴールデン街のお店で弾き語りライブを行います。
ミュージシャン歴10数年で初めて素朴な弾き語りに挑戦します。

ぼくはうたがダメだから、本質は器楽奏者(ギタリスト)だからと逃げてきましたが、こんなぼくでも10数年やり続けてレパートリー自体は数百曲なのだなとびっくり。

楽しみにしていてくださいな。



カールマイヤーepのダウンロード、8月の一ヶ月間のみで7100件!
夏休みだなあ。






9月7日

日々の泡

ご無沙汰です。
ちと、身辺慌しくしております。

この間、気管支炎がひどくなり、療養生活で外出もままならない日が続いていました。
ただね、3日(金)はみみのことを観に高円寺のペンギンハウス。
4日(土)、5日(日)は石塚隆則画伯の展示を観に水戸まで小旅行。

どちらも内容素晴らしく、落ち着いたら詳しくレビューします。

カフェ・イン・水戸 2004
http://www.arttowermito.or.jp/cafe2004/cafe04j.html

気鋭の作家さんばかりが参加しています。
石塚隆則はインスタレーションと展示で参加。
その他、移動式プラネタリウム「メガスター」で注目浴びている大平貴之さんとかね(超きもちいんだ!)。
10月3日まで開催しております。


デパートの垂れ幕芸術(?)街中が展示会場のようになっているのだよ。

石塚隆則はサイト構築中です↓
http://www.geocities.jp/ishizuka_hbs/

くどいようですが、身辺整い次第、ページ更新。
詳しくレビューします。
いましばらくお待ちくださいな。

お米がなくなりました。








8月31日

夏休みはもう終わり

はあ、もうすぐ始業式。
2学期の始まりだ。
正直、チョー鬱!

宿題はたいてい終わったけれど、自由研究だけ残ってる。
テーマを「眞鍋かをり」にしたのが間違いだったのかもしれないけれど、もう一からやり直す訳にもいかないんだよねえ。
(>_<)

テーマが「眞鍋かをり」で、困ったのが資料の少なさ。
本は皆、写真集ばかり。
どれも文章殆どないからコピもできない。
眞鍋かをりの魅力はどういったメカニズムで出来ているのかということに真剣にアプローチした研究って、学術的なものがまったくないんだよ!

グラビア・アイドルと横浜国立大学学生を両方とも自然体でこなせたのって考えれば考えるほど芸能文化と時代背景の移り変わりとか深いところ絡んできそうなのになあ。


大地震で学校なんてなくなればいいのに・・・・・・。




8月25日

我が亡き後に洪水は来たれ

関東地方南部の方はこのところの不気味な地震にピリピリしてることと思います。
なんかね不気味というのは、まずココココココという音ともともにいやあな感じの縦揺れが感じられて、それから大きく横に揺れるというパターンの地震が多いため。

このココココココ式縦揺れの間にもうホント、「ああ、この後にとうとう大きいの来るよな予感。もう我が家の老朽マンションじゃダメかも」ともうほんの数秒の間にデイアフタートュモローな光景が脳内でぐるぐるして堪らない。
ま、しかし心配したほどの壊滅的な揺れは未だ訪れていないんだけどねえ。
25日未明の地震も怖かった!
ま、実際はココココココ式縦揺れ付きのしょぼい地震だったんだけれど、震源地が東京湾!
震源地が東京湾!
オサーンなひとたちのこころにはいつもゴジラちゃんが棲んでいるの♂
東京湾が震源と聞かされるといつもこころに棲んでいるゴジラちゃんのご機嫌を心配してしまうもの。
近いうちに東京湾を震源としたゴジラ級の大地震が起こるのでわ!
(((((;゚Д゚)))))ガクガクブルブル

最近、横浜駅西口から横浜港へ注ぐ帷子川(かたびらがわ)に架かる橋の上でふと川面を覗いてびっくりした。
水位が異常に上昇している。
満潮時であったのだろうけれど、大雨による氾濫のときを思わせるような水位上昇。
その日は晴天。
道行くひとたちも川面を怪訝そうにしげしげと見ている。
なんだかとても不気味なものに出くわしてしまったかのような表情を浮かべて、不安そう。
「今日の川、ちょっと変じゃない?」
「水、多すぎない?」
「いつもこんなんだっけ?」
OLのお姉さんふたりの会話。

直接の関係は分からないけれど、帰宅後に気になる記事を発見した。

日本沿岸の海面水位上昇、近海の水温上昇に関連
2004.02.27
情報源 | 気象庁

現在の日本沿岸の海面水位がこの100年間で最も高い状況にあることを踏まえ、気象庁、気象研究所、函館、舞鶴、神戸、長崎の各海洋気象台が協力して実施している実態把握と原因解明のための調査の中で、海面水位の上昇は、日本近海の広範囲にわたる海洋内部の水温上昇に対応していることがことが明らかになった。
 日本近海の平均水温は1985年から2003年まで上昇傾向にあり、南西諸島から日本海では年0.01〜0.06℃、東海沖や関東東方沖では年0.1℃を超える上昇率を示しているが、この変化傾向は日本沿岸の海面水位の上昇傾向とよく一致しているという。
 なお気象庁では、海洋内部の水温変化の要因として、北太平洋中部海域での海上風長期変化、地球温暖化の影響をあげている。【気象庁】

我が亡き後に洪水は来たれ! これが資本主義の基本理念である
カール・マルクスの言葉。
「我が亡き後に洪水は来たれ」
フランス、ルイ王朝で贅沢と放蕩の限りを尽くしていたことを咎められた王妃が、後は野となれ山となれ、わたしが死んだ後の王朝の財政なんか知らないわ、オーホッホッホホ、朕はたらふく食っているわけ、ま、汝人民は飢えて死ねってことね、さ、フォアグラ頂戴、フォアグラ頂戴とのたもうた事例を、資本主義社会の基調理念としてマルクスは再定義した。
ただ、ここでの「洪水」というのは旧約聖書でのノアの方舟の逸話に基づく隠喩としての「洪水」。
地球温暖化による水位上昇がもたらす河川氾濫の心配、水浸しの都市を想定していたわけではない。

洪水、巨大地震、大不況の継続、引き続く恐慌の兆候。
(年間3万2千人以上、日本人の自殺、G7諸国では最高の自殺率)

胸のうちにゴジラが棲んでいるオサーンたちはカタフトロフの予感にいまびくびくしている。
不気味なものに敏感な想像力たち。
想像力の投射は都市空間を躊躇なく焼き尽くす怪獣GODZILLAに結実する。

地震情報( 震源に関する情報 )
平成16年 8月25日01時53分 気象庁地震火山部 発表
25日01時49分頃地震がありました。
震源地は東京湾 (北緯35.5度、東経139.9度) で震源の
深さは約70km、地震の規模(マグニチュード)は4.6と推定されます。
この地震による津波の心配はありません。


この地震による津波の心配はありません。
ぼくが心配しているのは、実は巨大地震や、地震に続く災害そのものではないような気がしてきました。
なにかもっと違ったもの。
なにかもっと違ったもの?
津波の心配はありませんというアナウンスに安心できないこころ。
(((((;゚Д゚)))))ガクガクブルブル
最近、満足に眠れていません。











8月23日

アテネオリンピック女子マラソンで野口みずき選手が堂々の金メダル。
いやはや感動的な走りだった。
2位、ヌデレバ選手との最終盤まで息を抜かせぬ死闘。
マラソンの醍醐味だ。
しかしどうしても拘りたいのはこの場に前回の金メダリスト欽ちゃんが出ていたら、日本人による欽銀メダル独占という偉業がなしえたのではないかという思いである。
選考段階での陸運の判断は正しかったのか?
前回、満面の笑みでゴールインし、42.195kmを走り終えたとは思えないウィニング・ランでの元気さに海外メディアが「POP RUN!!」と新聞一面で讃えられた欽ちゃんの走り。
4年前のあのトレードマークの笑顔が忘れられない欽ちゃんファンとしては絶えず問いかけてゆきたい問題である。








8月22日

掲示板を移転いたしました。
http://www.another.jp/rental/bbs/bbs2.asp?ID=sonimage

↑click!!
どなた様もブックマークの変更をお願いいたします。
いまは広告がうざいですが、すぐに広告なしの契約いたしますのでお待ちください。
これまでの掲示板は混乱を避けるために潔く削除!
最近の記事は転載いたしました。
投稿者の方、独断でごめんなさい。







8月16日

お盆の皆さん、お元気ですか?





8月10日

歓びの歌

ページ「続・ソニマージュ・レコーズ」を久しぶりに覗いてみたら、トップに平川地一丁目の記事。
ああ、こんな曲もあったな。
しかし褒めすぎだよな。
彼らをこれほど讃えた記事、読んだことねえよ。
ちょっと恥ずかしくなりました。
久しぶりに音楽、CDのお話。


「RCAレッドシール100年の奇跡 VOL.1 指揮者・オーケストラ・器楽独奏者編 BMG」

最近になってやっとクラシック音楽と和解できるようになった。
和解できるようになった途端、様々な曲、演奏が聴きたくなって仕方がない。
一年前なら考えられないことなのだよ。

ぼくと音楽の出会いは幼少の頃の沢田研二全盛期。
ジュリーの歌を保育園でひとり熱唱しては保母さんやちびっこたちに「ちいちゃんはお歌が上手ねえ、将来歌手になれるわ」とその場限りの根拠のない褒め言葉を無邪気に信じてしまったからだ。
あとね、母親が合唱団のソプラノ歌手だった。
合唱曲の譜面を辿るために母親はピアノを習うことにした。
母親に無理を言ってぼくも同じピアノ教室に通うことにした。
小学校一年生のこと。

ところがピアノは過酷だった。
まず自宅練習の際のメトロノームのカチコチが恐怖だった。
カチコチ鳴ると、もうどうにも気が焦る。
なんだか追われているような気がしてピアノどころではない。
教室での練習ではメトロノームの代わりに先生が手拍子を打つ。
「はい! ぱんぱんぱんぱん。手拍子に合わせて!」
いまならこう言い返す。
「手拍子とかさ、メトロノームの音とかにあわせて打鍵するってさ、それゲームの習得とどう違うのさ?」
さらにダメ押しでこう言い返す。
「演奏者は情念をいかに演奏結果に昇華させるか考えつくす。そこにテンポの概念の根本的な反省の契機が生まれる。オレ、新時代のロマン派だから!」

ま、でもメソッドにも歴史があって、「習得」にはゆるぎない根拠があって、そこはそれ、議論としても難しいんだよ。
ただクラシック・ピアノの習得が直線的にクラシック音楽アレルギーの端緒になった。
学校教育や「町の」ピアノ教室では「作曲者重視」の傾向があまりにも強すぎた。
どの演奏家による演奏か?
誰の指揮による演奏か?
これが作曲家の楽曲を生かす殺すを決定すること。
うん、多分、名演を聴いていなかったことがいけないんだろうね。

ミッシャ・エルマンがチャーミングで仕方がない。
バイオリンの音としてイメージされるのは皆「エルマンの音」。
なのに、実際にどう弾いてもエルマンのトーンは出せない。
実際に愛器と向かい合いエルマンの音を出そうと悪戦苦闘。
ぷ、全然遠いよ!
でも多くの人はエルマンの音こそをバイオリンの音としてイメージすると思う。
理由は明快で、初めてレコードという「最新メディア」に録音を残したのが彼だったから。
エルマンの初録音は1908年、約100年前のこと。

蓄音機の普及は貴族の御前での演奏を大衆家庭に解放した。
それは大革命だよ。
エルマンのレコードは当時大ベストセラーになった。
ああ、この時期の録音聴きたい!

エルマンの戦前録音は正規レーベルのものでは中々お目にかかれない。
ま、100年前のレーベルなんて潰れちまって跡形もないのが実情だから当たり前である。
ところがさすが名門RCA!
「RCAレッドシール100年の奇跡 VOL.1 指揮者・オーケストラ・器楽独奏者編 BMG」
ミッシャ・エルマン、1911年2月12日の録音が聴ける。
「フランクール様式によるシシリエンヌとリゴードン クライスラー」

さて聴いてみて驚いた。
うむ、え? あれ?
最初感じた違和感はクラッチノイズの有無。
耳にしてきたエルマンはいつもクラッチ・ノイズの中から鳴りだしてきた。
CDであってもいわゆる「レコード起こし」のものが多かったため、このCDのような正規マスターテープからの直接のマスタリングで戦前録音を聴くことなどなかったんだよ。
でも切なくもいい音だよ。
死ぬ間際はこの演奏聴きながら昔日に想いを馳せ、心安らかに逝ってよし!

エルマンのことばかりを書いてしまったけれど、このCDの白眉は文句なくウラディミール・ホロヴィッツのピアノ演奏。
1957年のホロヴィッツ自身の編曲による「ビゼーのカルメンの主題による変奏曲」。
このCDが初出。
情念をいかに演奏に反映させるかという目的のために技術の習得を究め尽くしたんだろうな。
技術が目的とならず、手段であることの健康さ。
躍動。
音楽家の鑑をひとりあげるとすれば、ぼくはホロヴィッツを真っ先にイメージすると思う。

さきのふたりの後に自身のお話をするのはおこがましいにも程があるのだけれど、先日、ステージ中にロマン派と呼ばれる演奏家たちの気持ち、演奏に対する心の向かいがなんとなく分かった。
それはハッとするような瞬間で、「ああ、そうか彼らはかように楽曲と心のありようを表出したかったのか!」。
それは自身の中から洪水のように洪水する歓びの歌だった。
でも洪水を洪水させるにはいまのぼくはまだまだ足りなく、そしてまだまだ足りないんだ。
音楽は豊か。
まるで汲み尽くせない源泉。









8月7日

2004年のロール

ページ「the sonimage ep collection!!」にmp3ファイル追加です。
↑クリック!
2004年のロール
内容はぼくの弾き語り!
多重録音一切なし!
まったくの一発撮りです。

ただね色んな音がします。
ハモニカ、クラシック・ギター、シンバル、あと声ね。
楽器はすべて周辺において歌いながら演奏。
そこにエフェクターが厚めに掛かっています。

最近の個人用途のミキサーはエフェクター内臓の高性能なものでもお安く出回ってきました。
メロドラマのステージでも手元に置いてコントロールしています。
便利という側面よりも、ひとりでできることの「広がり」こそが嬉しいです。

実はね、近々弾き語りをやろうかと思っています。
公演場所は新宿のゴールデン街の居酒屋さん。
とりあえずマスターに聴いてもらうために一曲録音してみたのが「2004年のロール」です。

溶鉱炉やメロドラマでの未曾有の表現の試みの一方で、「ああ、いま歌をおろそかにしているかも」と不安になります。
随分前に武蔵小金井のアートランドで向井千恵さんから「弾き語り」のオファーがあったのですが、あの日は腱鞘炎でギターを弾けなかった事情もあり、なんだかいつもと変わり栄えのしないソロ・パフォーマンスをしてしまったこと今でも後悔。

こういう弾き語りはどうだい?
一度に色んな音が鳴るけれどすべて素朴な生演奏。
そして歌。

2004年のロールなんだ。










8月5日

blonde killers!!

社会人としての再出発しなくてわ!
と勇む日々なのですが、保険として自宅での仕事も継続。

web関連お仕事。
初めてフラッシュ・ファイルを製作したり、何時間もエッチな画像を補正したり、何時間もエッチな画像を補正したり、何時間もエッチな画像を補正したりしてます。
お父さんお母さんごめんなさい。

画像補正に飽きたので久しぶりに絵を描きました。
使用ソフトは
macromedia Fireworks


(画像をクリックすると大きなサイズでご覧いただけるかもよ)
macromedia Flashが上達したら、彼らの活躍をアニメーションでお伝えしよう!
次回はもっとまともな記事で更新したいものです。
いい加減なサイト運営はアーティストとしての評価にも命取りです。

......blonde killers are......

山田のぼる
山田のの子

comming soon!!






7月28日

アンドロイドは電化製品の夢を見るか?

ここで皆さんとお会いするのは本当に久しぶりのような気がします。
暑い日が続きますがお元気でしたか?
暑いですねえ。
暑いのはいやですねえ。
正直、いまも暑いでしょ、あなたの部屋?

24日(土)、定例朗読会「溶鉱炉」は非常に刺激的かつ盛況のうちに幕が下りました。
ログなどを覗くと、公演の翌日のこのサイトへのアクセスが3割増くらいになっておりまして、「あらら、レポート求められているのかしら」と責任感が重く圧し掛かります。

思えば昔は公演やイベントの度に、後日、レポートを書いていたものです。
しかしどうも最近はサボりがちです。
原因は表現の現場が不断に続いてゆく感が強いこと。
とりあえず公演、イベントひとつ終わったと、さて文章でまとめて紹介しておこう。
↑、の余裕がないままに次回公演の予定があり、さて次回はどうしようかと心忙しい日々が始まってしまうことにあります。

幸いというべきか分からないのですが、次回公演は10月の溶鉱炉しか決定しておらず、ひと息入れられるようです。
ゆっくりこれまでの公演、イベントを自身の中で消化して次回に臨もうと思います。
あ、ただお誘いはいつでもください。
お誘いばかりではなく企画についても考えないとね。

この国が1945年以来初めて侵略戦争に直接に軍隊を派兵している最中に、<詩人>と自分のことを呼んでいる人たちは皆一心に自身の不幸を朗誦しています。
身近な不幸の解決は生活人として生活の中で解決してゆくもの。
「その傷みは誰の興味を惹くもの?」
自国軍が直接、侵略に加担しているいまにあって<
悲劇性の背負い>の身振りは正当性においてまったく疑わしい。
詩というものはこんなにも無力、無害なものだったっけ? と疑う瞬間があり、自宅に帰ってツェランを読み詩を確認してみることしばしです。
悩んでいることがあるなら生活人として個人的に相談乗るよ!
詩の力を自己表現とやらに収束させてしまうポエムさんたちとは、詩の現場で可能性に於いてもっと巨大な詩を開示したいです。
愚痴、ごめんなさい。
敵はもっと遠くに居るんだから。


http://www.h4.dion.ne.jp/~narcisse/youkouro.htm

本番は不具合で鳴らせなかったベース。
右横は阿部薫のサインが入った古いポートレイト。


溶鉱炉そのものはどんどん刺激的になっております。
毎回、ドラスティックな変化を遂げてゆくのを感じます。
盛況であるということ、面白いものとしてあるということ。
マンパワーの点で「強いひと」の出演が回を経るごとに多くなっていること。
惹かれあい。
ただ、これまであまり溶鉱炉の魅力について書けなかったのは、魅力を凝縮した象徴たる会場が、とある著名な舞踏家さんの個人アトリエであるため。
舞踏家さんの名前を出すのもはばかれるし、場所も書けない。
ただ、あの場所で1969年、三島由紀夫と全共闘学生の歴史に残る討論(天皇に関する激論 三島は天皇主権の主張の割りに天皇理解が浅かったコト。1969年にあっては昭和天皇は主権者への返り咲きを自ら画策していた時期=終生続いたという渡辺治の分析をぼくは信じています)が持たれ・・・・・・。
この際に学生だったころの橋爪大三郎が三島を睨んでいた。
あ、そういえば今回は客席に楯の会と親交深い方(?)までいらしたり・・・・・・両極で惹かれてしまうということはよくあること。
あるときは阿部薫がそこに居て・・・・・・。
これは演奏中にこそ生々しく、「わ、いまもここにいるじゃん! 
実のところ成仏してないだろ?」とにわかに電波キャッチャーになる自分が居て・・・・・・。
伝説が伝説らしくなく、まだ闘争の渦中の場所として躍動していることの嬉しさなど至福です。
今回は林佑次さんというどうにも迫力のある舞踏家さんが出演されて圧倒されました。
正直、自分のステージやるのが怖くなる程、恐ろしい競演者に出会ったのは何年ぶりかしら?
林佑次さんは10月の次回溶鉱炉にも出演決定だそうなので、集客、お誘いがんばりたく思います。
観といた方がいいよ!
うん、伝説が伝説らしくなく、まだ闘争の渦中の場所として躍動していることの嬉しさ。

実のところ成仏してないだろ?

溶鉱炉の魅力は愚痴から自由な夜に思う存分書きたく思います。

でわ、また。
(↑、醜い記事なので早めに次回更新したいものです)
















7月17日

地震速報

17日午後3時、関東地方一円に比較的大きな地震がありました。
各地の詳しい震度はまだ入ってきておりません。
この地震による津波の心配は中尾さんが心配してオロロ。
連日の夕立による地盤の軟化に伴い、各地では土砂崩れの心配が中尾さんの胸でオロロ。
東海大地震の引き鉄になりかねないのではと心配する声もある中、中尾さんがオロロ。
余震の心配に中尾さんがオロロ。
ひょっとしてもっとでかいのが30分後かに来るのではないかと心配する声もある中、中尾さんがオロロ。
この地震による被害は中尾さんがオロロ。
中尾さんがオロロ。

朝鮮人が井戸に毒を混入した。
関東大震災の有名なデマとそれに次ぐ日本人による朝鮮人虐殺はここ横浜が発端の地で、翌日、翌々日に東上して東京に広まっていった。
民衆による自然発生的なデマではなく、その実際は右翼的な政治結社により巧妙に仕掛けられた一種のテロだった。

わたしの忍耐は おまえの裏返したメダルだ

ジャン・ジュネ


中尾さんはオロロしながらも、火災になる前に火を未然に消し止めようとweb日記を更新した模様です。
webを更新する。
webを更新する。
webを更新する。









7月11日

下瑠春徒・腹痛氏のある休日の午後

ども、下瑠春徒・腹痛です。
プ、休日だというのになんの予定もありません。
こんな休日は何年振りでしょうか?

ああ、選挙ですね。
いつだったかガテン仕事帰りに職場の方々と駅に向かう途中、キオスクに高く積まれたスポーツ紙の見出しを見て「ああ、明日は皐月賞じゃん」と申しましたら、「違うよ、明日は県知事選挙だよ!」とガテン親父に怒られたことがあります。
自分がとても
恥ずかしかったです。

夏に富士登山に誘われました。
・・・・・・。
返事はもう少し待ってください。

休日の過ごし方をどうしようか?
とりあえず脳みそに浮かんだ言葉でweb検索をしてみました。
「お寺体験」
http://www.akita-c.ed.jp/~sch11665/H14/hokuhoku/6nenn/11.28/
写真3コマだけで完結してるのでよく分からないです。
可愛いな坊主。

7月10日は「納豆の日(7な10っとう)」。
他人が考えた駄洒落に(7な10っとう)などと注釈を入れなければいけない屈辱感といったらないな。
ま、検索。
「納豆体験」
おおおおおおおおおおおいいいいいいいい!
検索結果:37400件
おお、この34700件を全部回れば一日過ごせるかも!
それ、すっげえええええええ、くだらねえ一日!
そういえば「LaLa」で検索すると1,710,000件!
いつになったら自分のバンドの情報に辿り着けるのでしょうか?
http://www.ecorient.co.jp/hmp/mm/041/
ああ、で「納豆体験」でまず気になったのはこのような「自宅で納豆を作ってみる」ですね。
これまでに、こんなに試食が恐いと思ったことはありませんでした
発酵中に雑菌が入り、本当に腐ることも考えられます。ちょっとでもおかしいと思ったら食べるのを控えましょう
ああ、成る程ね。
本当に腐る可能性か・・・・・・チーズとかも難しいのかね・・・・・・。
ん?
博多フードパーク納豆家・粘ランド
http://kanko.tabimado.net/kanko/go/resource$id=ADGR100308
「粘ランド」・・・・・・知らないなこのテーマパーク・・・・・・。
検索しなかったら一生知らなかっただろうね・・・・・・。
「粘ランド」とは恐れ入ったな・・・・・・。
メロドラマとか見送りの日とかLaLaとかなかおちさととか自身のユニット、バンド名のセンスに惚れ惚れしてきたぼくだけど・・・・・・。

うむ、しかし考えてみると「富士山体験」というのがいま一番気になる問題ではある(違うよ、今日は選挙だよ!)。
もうさ、罰ゲームでもないのになんでそんなことを? とは思うのだけれど山頂は壮観だろうなあ・・・・・・。
昔、石塚と石塚の当時の彼女とノブちゃんとで富士山に登った際の記録を観たような気がする。
映画「石塚 愛のメモリー ツノダノブキ監督」だったかなあ・・・・・・。
それまで文科系のかほりプンプンだった石塚画伯が富士登山!
「ひとの成長」を知るというか、なんか感慨深い気になりました。
神妙。
http://www60.tok2.com/home/kaai/fuji.htm
最後の鳥居をくぐり階段を上り切ると山頂に到着です。酸素不足で高山病の人は頭痛がピークに。
とりあえず荷物を降ろし、酸素ボンベを持っている人は吸入しましょう

・・・・・・酸素ボンベ・・・・・・。
ひとつ上は宇宙だね。
ま、いずれにせよ成長を暖かく見守ってくれるぼくのような友人がいる石塚は幸せである。

富士登山の誘い文句は「今の年齢じゃないとそのうち登れなくなるよ!」でした。
改めて思うのですが、いやそうではなくて富士山噴火するでしょ?
今年あたりさ・・・・・・。

ポン! てな感じでさ。
確かに登れなくなるよね・・・・・・。
噴火が収まって、やっと登れたとしてもすごおおおおおく低くなっちゃったとか・・・・・・あと、考えたくもないけれど逆に標高がありえないくらい高くなったらどうする?
富士は日本一の山。
日本一更新しちゃったりして・・・・・・
新しい記録を作るのもやはり富士山だった!







きっと早めに投票を済ませる。
その後の予定は何もない。
もう何年振りかよってくらい「すること」が思い浮かばない。
多分、納豆は作らない。
多分、富士山に登るかもしれないけれど今日じゃない。
12日には選挙結果が判明し、結果に疑問を抱いた国民が国会議事堂を包囲し、7月14日、バスティーユ監獄は歴史上、二度、陥落する。
多分、そうなる。
来週の休日は人類史上、いちばん忙しい。
多分、そうなる。








下瑠春徒・腹痛氏のある休日の午後








7月5日

おすぎです。

久しぶりに心底「よかったああああああ」と思える映画と出会えました。
現在も公開中の「キッチン・ストーリー ベント・ハーメル監督 ノルウェー/スウェーデン」
http://www.kitchenstory.jp/

「映画を観に行こう」
そんな気持ちが先。
何やら劇場で観るに値する映画はやってないかね?
あ、「バーバー吉野」は横浜ではやってないよ、トホホ・・・・・・・。
http://www.pia.co.jp/pff/barbar/

検索して気になったのが銀座で公開中の「午後の五時」。
http://www.cinemabox.com/gogo/

たださ、基本はデートなんだよな。
あ、そこのきみディスプレイに向かって投石するつもりかい?

15歳くらいのことだからもう宇宙的に昔のことなのだけれど、一番最初に女性とデートしたのも映画だった。
相手の方はその後、数々の映画製作に携わり、いまテレビ製作会社でディレクターをしている。
誘われて観た映画、あれなんて作品だったんだろう?
ああ、そ、「誘われたデート」で観た映画。
あ、そこのきみページ閉じようとマウス動かしてるのは何故だい?
二部構成の大作。
ぷ、立ち見。
文芸映画。
3時間半くらい。
・・・・・・いい映画でした・・・・・・。

いい映画だったのに誘った相手は非常にすまなそうな様子だったのを覚えている。
どうにもバツが悪そうでした。

真摯な映画ほどデートの行き先としては躊躇してしまう。
ぼく自身も侯孝賢 (ホウ・シャオシェン 台湾)監督の「好男好女」という映画に当時の彼女を誘ったコト、後悔している。
終演、場内が明るくなって、年下の彼女は屈託のない笑顔を満面に浮かべて、ぼくに言った。
「分からなかったよ!」

ぼくは彼女の輝く顔を直視できずにうつむいてポツリ。
「うん、分からなかったよねえ・・・・・・」

ビター・テイストな消えないメモリー、ほろ苦い青春の味。
♪東ハト・キャラメル・コーン♪
(ビター・テイスト)

「キッチン・ストーリー」はデートにジャスト・サイズ。
各サイトの紹介記事を読んでそう思った。
実際に観た「キッチン・ストーリー」は予想していたサイズを桁違いで凌駕してくれた。
いま、部屋にひとりいて、映画の様々なシーンを思い返す。
ああ、黄昏てしまうほど愛らしいシーンばかり。
「いい映画」「面白い映画」であることは予想できたけれど、「素晴らしい映画」であるとまでは予想していなかった。

各評価でアキ・カウリスマキ監督が引き合いに出されるのも何となく分かる北欧映画。
まず低予算。
絶対に低予算。
あと、ユーモアの黒さの度合い。
ただ鑑賞後の実感はカウリスマキ作品の爽快な荒涼さとはかなり違うはず。
「は、不覚にも素晴らしい映画過ぎ。オロロ」
涙腺が危機的に緩む。
この映画をテレビ番組「王様のブランチ」で紹介した女性は、感極まって本番中に涙を浮かべながら紹介したという。

ま、ここまで書いておいて何なんですけれど、この映画は「どんな映画」であるかを説明しがたい。
ストーリー、あらすじの説明してもあまり甲斐がない。
ドラマとしてドラマティックではない。
ドラマティックではないのに登場人物たちの人生は確実にドラスティックに変わりゆく。
それも人生の最良の方へ。

映画の骨格に秀逸な脚本がしっかりある。

ノルウェー人が訊く。
「白鳥と友達になったことはあるかい?」
スウェーデン人がおずおずと申し訳なさそうに答える。
「いや、全然・・・・・・」

映画の中での好きなせりふ。
あと、脚本とはあまり関係ないのかもだけれど、舞台がノルウェー。
郵便配達夫が雪の上をそりに乗っかって郵便物を届けている。
そりだぜ、ノルウェーのポストマン。
びっくりだ。
異文化は侮れないな。

異文化と会話する。
スウェーデン人とノルウェー人の会話が映画の主軸。
北欧とひとくくりにしてしまう両国だけれど、文化の態様、国民性は違うんだねえ。
「地続きに隣国がある」
「隣国とは地続きではあるけれど、生活、文化、歴史に違い、隔たりがある」
違い、隔たりを会話、対話することで確認しつつ、人と人としての距離はむしろ縮めてゆく。
生真面目なテーマを全編良質のユーモアで包み込んで届けてくれる。

この映画をデートで観ることができてよかったと本当に思う。
終演後、場内が明るくなる。
隣の椅子にはぼくとの会話を待つ人が居てくれる。










おすぎでした。




6月23日


↑更新です

From nakao chisato( HP ) To rottenlily@moon at 2004 06/22 22:39 編集 返信

透 析

一点
「生命の等価」
から対蹠
点「生命は等価
?」を
伝う思考

を辿る
線上のさらなる
一点「ペインは19日、3月の列車同時爆破テロから100日を迎えた。多くの死傷者を出したマドリードのアトーチャ駅では、大型画面にメッセージを映し出す「言葉の空間」が設けられ、市民や観光客が犠牲者への思いやテロへの怒りをキーボードを使って打ち込んでい」との思いがけない邂逅
食卓での黙想の仕事
私には
いささかの準備もなく
一点から対蹠点を伝う思考
線を辿る
線上

思考
線そのもの
の消失

事件のその日より眠れない夜が続きます背後で唸る不覚の音に恐怖し映像の喚起のリピートの記憶の肥大の萎縮の末に透析を開始する必要があります先ほどまで滞っていた私の血流がいま温かく私を発熱します恐怖の偏在の恐怖の拡散の恐怖の透徹の恐怖

「生命の等価」
「生命は等価
?」
反証可能性の立証不可能性の生/
命の等価

ペインは19日、3月の列車同時爆破テロから100日を迎えた。多くの死傷者を出したマドリードのアトーチャ駅では、大型画面にメッセージを映し出す「言葉の空間」が設けられ、市民や観光客が犠牲者への思いやテロへの怒りをキーボードを使って打ち込んでい

患者の意識の回復を祈る声が今なお市街の至るところで聞かれます











6月20日

さよならバードランド
<序>

このページを変えたみました。
ページ
「見送りの日」
ザ・モンキーズ・フィルム・コンサート!! 編
start!!

背景画像は猫のテラくん。
千葉県の千倉にあるペンション「バードランド」の猫くんである。

千倉には1月の末だったか遊びに行った。
千倉は古くからの温泉宿で情緒あふれる思い出深い街だ。
ただね、このとき泊まったのは「温泉宿」ではなくて、綺麗なペンション。
名前を「バードランド」という。

バードとはこの場合、鳥ではなくて、チャーリー・パーカーの愛称の方。
バードランドはNYのJAZZ CLUB。
オーナーが大のジャズ好きでこの名前になったそうな。

「さよならバードランド ビル・クロウ著 村上春樹訳 新潮社」

↑の本はご存知?
実はこのペンションにはこの本の訳者さんの村上春樹が実際に宿泊したことがあるんだぜ!



小さな画像で申し訳ないがよく目を凝らして欲しい。
このペンションの1階フロアに鎮座しているのはマッキントッシュ社のアンプ2台だよ。
コンピュータではなくて超高級オーディオ・メーカの方だ。
自慢じゃないが実用されているところ生まれてはじめて見た。

ここのテラくんに限らず、千倉は行く先々に猫が居た。
ガラス工房でのショット。



嫌がる猫とは対称的な31歳独身男の崩れた顔を見て欲しい。
うむ、何ともいえない。

ここから一気に話は辛気臭くなるが我慢して欲しい。

このショットを数ヶ月ぶりに見た。
そして思う。
多分、笑顔というものにはいつもプロデューサーが居る。

このショットの場合は、このにゃんこ。
そしてこの姿をファインダー越しに収めていたカノジョさまだろう。
なかおちさとはいつもはこんなだらしない顔はしていないので注意して欲しい。
毎度のこと、いい笑顔プロデューサーが笑みの仕方を教えてくれるのだよ。
繰り返すけれど、なかおちさとはいつもはこんなだらしない顔はしていないので注意して欲しい。

笑顔のプロデューサーへの感謝は日ごろ忘れがちなものだ。
また、オレ、アタシはプロデュースしたことなんかない!
そんな方は、あのさ、相手との会話が気まずくて、でも何だかとりあえず場を寛がせるために内心あたふたしたりしない?
あのとき、オレ、アタシは多分、笑みをプロデュースしようと必死なんだ。
うん、そのときあなたは笑みのプロデューサーだ。
自分を肯定しなさい。
また、オレ、アタシはプロデュースされたことがない!
そんな方はとりあえずマクドナルドのカウンターで「スマイル!」と注文しなさい。
今日はポテトやめてスマイルにしなさい。
いいプロデューサーに出会えるといいね。
オレ、マジ、祈ってるよ!



みふね。
笑顔のプロデューサーへの感謝は日ごろ忘れがちなものだ。

なかおちさとはいつもはこんなだらしない顔はしていないので、そこのところはよく注意して欲しい。






「さよならバードランド」

つづく




6月2日

日々雑感

お久しぶりです。
あなたのソニマ!
前回の記事が5月18日ですからほぼ半月ぶりの更新です。
この間はね、ADSL回線業者の乗り換え時期でした。

溜めてきた話題は大小さまざまあります。
ただ半月ぶりのライティングですのでリハビリ優先。
小ネタばかりをばらばらと列挙します。


メロドラマ



29日、ペンギンハウス高円寺にお越しいただいた皆様ありがとうございます。
BBSにも書きましたがあの夜、メロドラマをお見せすることはできなかったと思っています。
ぼくが思い鳴らすメロドラマはもっと豊かな音楽です。
ただ音楽のアリバイ、音楽家のアリバイは音楽なのだよねえ。
今から脳みそ割りますからここに詰まっている音楽を楽しんでください。
パカッ!
どう、しびれる音楽でしょ?
↑な感じにはゆかない。
無念。
久しぶりに弾いたギターが気持ちよかった。
ぼくは調子がよいとき、ギター演奏の最中にぴょんぴょんと飛び跳ねる癖がある。
今回の企画のNNNの大村さんのサイトにあるメロドラマのステージ写真。
ぴょんぴょん跳ねているいる32歳がいる。

http://nnn.mond.jp/live/040529/040529.html



ぴょんぴょん跳ねている。


ビフテキ

最近、食べてないなあと思うのが「ビフテキ」。
ビーフステーキ。
ナイフでコキコキ切ると肉汁がジューッと流れ、そこに微かに牛の血が混じっていることに気づく。
肉の表面に浮かぶその血をナイフの先でそっと掬い上げる。
いまナイフの先端に血が浮かんでいる。
凝視する。
ナイフの先端に舌を当てる。
舌先に吸い付くように血が乗る。
昨夜、報せを聞いた猟奇殺人について考える。
ビフテキの話は、また今度ゆっくりさせていただきたいなあと、ちょと思う。


南米

テレビ番組「世界の車窓から」で紹介された南米を走る列車。
列車が運ぶひとびとの事情あれこれ。
南米という土地は大陸規模で田舎だな。
闇の方向に向かって、太陽の方向に向かって、いずれにせよ果てしない田舎だ。
ああ、なんか世界に潜り込みたいよ。
世界に飛び立つ・・・・・・じゃないんだ。
世界に潜り込みたいんだよ。
南米のどこの国だろう、あの湿原の背の高い植物の根元近くに潜ってみたい。
いま32歳。
人生はあと50年くらいしかないのかなあ。
うむ、残り時間なんてものは殆どないのだよ。




リハビリ完了

日々雑感











5月18日

イラクではサドル師の肖像を街角に貼るだけでアメリカなど侵略軍に逮捕されるという。
ぼくのサーバーは日本にある。
これまで隠しページであったそこに肖像を貼る。
政教一致体制を表明し蜂起した彼への支持、不支持、ぼくのこころ持ちは複雑だ。
ただ、貼ってみる。
併せて隠しページを今日より正式公開する。
イラクの壁に貼ることができない肖像。
すべての壁が不自由の隠喩とならないための微力。


the outtake from karlmayer's wold

↑、click it!!










運命への挑戦

日々


このところ、なんとも頑固な頭痛に悩んでいる。
ある怯えからくる焦燥感があって、鼓動が乱れている。
ただ、内心にばかり関心を向けずに窓を開け放とう。
陽射しには屈託のかけらもなく、大気は壮観なまでに凶暴でいて、四月、あまりにもまぶしい。

ぼくの内心の怯えというものはひどく感覚的なものだと自覚している。
ある、ニュースがきっかけで震えだした。


2078. 家へ帰ろう なかおちさと@nakao chisato [URL]  2004/04/09 (金) 10:59
サマワの人たちに無事に羊を届けた隊員の皆様、お勤め本当にご苦労様でした。
お帰りなさい。

http://www.euronews.net/popup.php?lien=stream1.euronews.net:8080/ramgen/new/cut/iraq_28902_1.rm?usehostname


イラクでの邦人3名の誘拐事件。

いまは4月12日、日本時間午後1時。
この事件はいまだ解決に至っていない。

9日、午前11時前後、このサイトのBBSへの書き込みには、自分自身どうにも我慢ならないいやらしさがある。
自衛隊の撤退を促す主張と、人質が誘拐犯によって脅されている映像の並列。
ぼくはこの書き込みで「あたかも自分自身が誘拐犯と同調するかのように」もしくはずばり「誘拐犯のように」振舞っている。

('・c_・` )<ダメじゃん.....

四月、季節は錯乱。

「苛酷な現実(これは同語反復である!)としての戦争、事実がもたらす苛酷な教訓としての戦争は純粋存在についての純粋体験として生起する(「全体性と無限 エマニュエル・レヴィナス 国文社」)」

それがために2004年の4月、ぼくの頭痛は陽射しのように威勢よくある。

「文化を体現するということは、運命を食らうということであり、認識によって運命を同化吸収することだ。それはまた、本が神を語り、自然や人間や死や運命を語るとき、そんなご託は嘘八百だと見抜くことでもある(「革命のメッセージ アントナン・アルトー 白水社」)」

誘拐犯たちからの日本政府への要求はイラクからの自衛隊の撤退だった。
引き換えにされたのは日本人3名の生命だ。
この要求に対して小泉純一郎内閣総理大臣の返答は「自衛隊の撤退はありえない」。
福田官房長官も「わが国には撤退する理由がありません」と発言。
こうした政府の判断をメディアは我先にと称揚した。

「テロに屈しないとする政府の毅然とした姿勢は評価に値する」

とまれ、この判断の評価が下されるのはこの事件が無事に解決したそのときだろうに。

ダッカ事件で赤軍派の服役囚を釈放した日本政府の判断には世界各国から非難を浴びた。
今回の政府の早期の判断はこうした非難への反省が活かされている。
今日の国際政治では「テロリストの要求に屈しない」というのが大前提だ。
こうした掛け声が事件発覚以来メディアから大量にあふれ出した。

この「テロリストの要求に屈しない」という判断は目に見える成果たるものをいま現在なにひとつ実らせていないという剥き出しの現実。
「自衛隊の撤退はありえない」とすることによって、テロリストとの交渉に、フレキシブル、柔軟な対応ができず、事件の解決は一向に見えていないというのが、4日後、きょう今現在のありのまま。

本が神を語り、自然や人間や死や運命を語るとき、そんなご託は嘘八百だと見抜くこと。

さて、運命への挑戦。

反テロという姿勢の正当性はいつの時代も自明なものだと信じたい。
ただ、反テロリズムを訴える言明がいつの時代も正当とは必ずしも限らない。
今日の世界で反テロリズムの急先鋒がイラク情勢を泥沼化するだけのブッシュ政権であるということを顧みる。
今日の反テロリズムは、もはや悪しき「反テロリズム原理主義」に堕落してしまったのだと感じないわけにはいかない。

「テロとの戦いは自由民主主義国家の宿命であり、運命である」

イラクで今現在アメリカ政府がこだわっているのは、主権移譲後のイラク政府をアメリカの傀儡政権、もしくは少なくとも親米的な政権にすること、その一点に過ぎない。
ブッシュ政権が口にする「テロとの戦い」というものの実際の容態と、ご託の自明性はなんて汚らわしいのだろう。
ブッシュ政権の施策のすべてがむしろテロを育てている現状において、彼らの「反テロリズム原理主義」は反テロリズムとしてはまったく機能していないのが現実なのだ。
堕落。

この「運命」の担い手を請け負う日本政府。
運命は「自明と信じられている<その場>」限りにおいて運命、宿命として機能する。
この疑わしい運命を自明なものとして理解しろとテロリストに「甘える」ことを恥じない日本政府。
政府は今回の事件での自らの無能ぶりがどうして根本的なものかということを一向に自覚できない。
自らが信奉する運命の運命性を疑う知性がない。
「自衛隊は人道復興支援のためにイラクに派遣しています」
人道復興支援、その実態は効率の悪い水汲みに過ぎない。
それでも「自衛隊の撤退はありえない」。
理由は「テロリストに屈してはならない」から。
固着した観念、予めの回答、以後の思考停止。
反テロリズムという名の「反テロリズム原理主義」は今日の社会の妖怪だ。

「文化を体現するということは、運命を食らうということであり、認識によって運命を同化吸収することだ。それはまた、本が神を語り、自然や人間や死や運命を語るとき、そんなご託は嘘八百だと見抜くことでもある(「革命のメッセージ アントナン・アルトー 白水社」)」

「テロリストに屈しないという政府の早期の判断は評価に値します」

事件解決への道の手詰まりといういま現在。

さきに引いたレヴィナスの言葉にはひとの聡明さを揺り起こそうとする前段がある。
以下。

「戦争においては、現実を包み隠していた言葉やイメージが現実によって引き裂かれ、赤裸で苛酷なこの現実がじかにつきつけられる(「全体性と無限 エマニュエル・レヴィナス 国文社」)


今日、現実を包み隠そうとブッシュ政権が嘯く「テロとの戦い」という言葉やイメージが、現実のイラクでの「ベトナム化」によって引き裂かれているありさまをよく見よう。
そしてレヴィナスは続ける。

「苛酷な現実(これは同語反復である!)としての戦争、事実がもたらす苛酷な教訓としての戦争は純粋存在についての純粋体験として生起する。(「全体性と無限 エマニュエル・レヴィナス 国文社」)」


「テロリストに屈しないという政府の早期の判断は評価に値します」

なにも解決し得ないという苛酷な現実(これは同語反復である!)があるだけの現在において「評価」に満足げなこの国の政治家、テレビ番組司会者、批評家、新聞論説委員たち。
彼らが一様に拠る「反テロリズム原理主義」の、反テロリズムとしての機能の堕落。
運命の運命性における浅薄。

本が神を語り、自然や人間や死や運命を語るとき、そんなご託は嘘八百だと見抜くこと。

運命への挑戦。

賭けられているものは常にわれら人間の生命。

ぼくはテロとの戦い自体を疑うに至った。

/ベトナム化する(テロとの戦い、)イラク情勢/

四月の凶暴。


















4月14日

テクスト「運命への挑戦」をひとまず書き終えて

上に掲載しているテクスト
「運命への挑戦」にどうも自信がない。
ずばり「何書いてんだか、よく分かんない」。

こうした性格の書き物に固有の分かりにくさは、書き手の「頭の中でもやもやしていること」を無理に引きずり出そうとする必要があるときに生まれるのだろうなあ。
思想が手足まで行き届かないというか、生活の言葉にまで鍛え上げられていないのだ、きっと。

日々、鍛えなおすというか書き直してゆこうと思います。
要旨は「なんというか<大前提>が疑われていない状態ってホントにこわい。いま、この瞬間の与党政治家の頭の足りなさはソコに尽きる」ということです。
テクスト内の「運命」というのは「あたかも運命のように思われているみたいだけれど運命と断言するには弱すぎるだろ、その運命はよお」というようなショボイ「運命」のこと。

先日、夜更かしして「ベストヒットUSA」というテレビ番組を観ていたら、METALLICAの「ONE」のプロモーション・ビデオがオンエアされていました。
え? いまもスーパーバンドなので需要があるのは分かるけれど、なぜ?
もう頭の中が?????????????????で溢れていたのですが、この「ONE」のプロモーションビデオは映画「ジョニーは戦場へ行った」のシーンを随所に挿入しているんですよね。
「ああ、イラク情勢への小林克也なりのアンチか!」
恐れ入ったのはこの選曲の意図だけではなくて、メタリカの演奏自体。

擬音で書くと。
ズズズズッズ! ズズズズッズ! ズズズズッズ! ズズズズッズ!
こんな感じのギターの音の重いながらしなやかな不思議。
ドラムはオンタイム、ジャストきっちしという感じでポコポコなのに、、リズムギターは頑張っているなあ・・・・・・。

実は高校生の頃、代々木体育館で彼らの来日公演を観たことを思い出しました。
素晴らしかったよ。
思い返したら「おれ、もう趣味疑われてもいいや。メタリカはアイドルだった。カミングアウトしよう」と勢い込んだ。

大学の頃、英語の授業でパスカルを読まされた。
フランスの哲学者の古典を日本語で読んで、日本語でレポートを書くと英語の単位が貰えるという変な講義だった。
あの頃はパスカルがのたまう「中庸」という概念を頭ごなしに否定した。
いや、内容はさすが古典、機知に富んでいて素晴らしい文章だったのだけれど、賞揚される「中庸」の概念に対して身構えしてしまった。
ぼくは何事も極端なものが好きだった。
「中庸」は中道と結ぶものだと曲解してしまった。

中道というのは「中道に極端に偏っているんだよ!」と、相対主義者の相対への絶対的な自負にうんざりしていた。

メタリカというバンドはどうにも可笑しくて、イントロはやけに美しいギターの調べ。
あらまるで高中正義のクソフュージョン聴いているみたい!
一転してズズズッズとへヴィなギターリフでやかましく! という白痴的な展開を多用するのが好きみたい。
しかしギターソロがメロディアスなのはいただけないなあ。
いかめしい面構えをしたおセンチさん。
多分、ロマンチストであり、ヘヴィ・ロックというものは元来ロマンチストでなければやってられないものなのだと思う。

気分がざらついているときにこそ、こうした極端な音楽はむしろ<癒し>のように心地よい。
こうした<癒し>は危険なものだろうと自覚する。

最近の癒し音楽は以下。


「RIDE THE LIGHTNING METALLICA (EPIC)」
高等教育を卒業したら見えないところに隠してしまいがちです。
しかし聴くときは必ず大音量で近所迷惑承知の上で聴こうではありませんか!
ときに開き直るくらいの度胸がないなら、それもまた大人失格。


「THE AMAZING BUD POWELL VOL.1 (Blue Note)」
麻薬中毒で浮き沈みが激しかった人生。
でも1951年のこの<極端>はAMAZINGにやかましい。
がんがんがんがんピアノを叩く。


「NEW ELECTRONIC MUSIC FROM LEADERS OF THE AVANT-GARDE VA. (SONY)」
ジョン・ケージの「変奏2」をデビッド・チュードアが演奏。
うるさいことこのうえない。
ジャケットが素晴らしいのでアナログ盤が欲しいです。


「KONTAKTE Karlheinz Stockhausen (wergo)」
シュトックハウゼンの1959/60年作品を、本人および上述のデビッド・チュードアなど、ろくでなしどもが集まって楽しくいじる。
キチガイというほめ言葉。

すべて幼稚というのはどれ程に肯定的なチカラに満ちているか! と驚かずにはいられない音楽たち。
ああ生半可な理知が一番仕事をしないのだろうなと自戒する。

でも生半可にも理知が染みてしまったならば、理知をたゆまず鍛え上げてゆこうとも思う、ぼくは優等生。

「王様は裸」

幼稚と理知の弁証法のモチーフ。








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4)過去記事 ロンドン・コーリング! ロンドン・コーリング!
5)過去記事 セピアにしてはいけないものを、
6)過去記事 我ら、砂漠の生き物、

7)過去記事 晩鐘、種を蒔くひと、